主体性を育てる授業改善:学校文化は、何気ない「日常の行動」からつくられる

なぜ、同じ指導をしているはずなのに、「形だけ真似る授業」と「子どもが勝手に動き出す授業」に分かれるのでしょうか。

先日、ある学校の研究授業を参観させてもらいました。授業を公開するのって、めちゃくちゃ勇気がいりますよね。だからこそ研究授業は、授業者を評価する場ではなく、参観する私たちが自分の足元を見つめ直す最高のチャンスだと思っています。

協議の最後に、先生方へ一つの問いを投げかけました。

「それって、本当に実装ですか?」

今、教育現場では「主体的・対話的で深い学びの実装」が盛んに議論されています。この「実装」という言葉、ただの「実施」でも「導入」でもありません。なぜわざわざ、この言葉が使われているのでしょうか。

たとえば、黒電話とスマートフォンを比べてみます。どちらも電話ですが、役割はまったく違いますよね。黒電話は情報をただ受け取る道具です。一方のスマホは、人とつながり、調べ、発信し、一緒に新しい何かを創るための道具です。見た目がスマートになっただけでなく、根底にあるOSそのものがアップデートされています。

じゃあ、学校はどうでしょうか。

教科書は新しくなり、社会もすごいスピードで変わっている。子どもたちに求められる力も激変しています。

なのに、教室の景色はどうでしょう。

100年前の写真を見ても、現在の教室を覗いても、子どもたちが前を向いて座り、黒板を見る教師の言葉をじっと聞いている景色は、驚くほど変わっていません。

もちろん、一斉指導を全否定したいわけじゃありません。ただ、「前向き一斉」が当たり前になり過ぎて、それ以外の選択肢が消えていないかという違和感は持っていたいのです。私たちは無意識のうちに、「教室とはこういうものだ」という強力なデフォルトバイアスを抱えているのかもしれません。

だから授業の途中で、「はい、今からペアで話して」「じゃあグループで考えて」という場面が急に差し込まれます。

でも、それって本当に「実装」されていると言えるでしょうか。

スポーツで考えてみると分かりやすいです。「次はパス練習です」「次はドリブルです」とバラバラの練習をこなして、いざ「試合で使ってね」と言われてもうまくいくわけがありません。本当に力が付くのは、予測不能なゲームの日常の中で、自分で状況を判断し、仲間とアイコンタクトを取りながらプレーするときです。

つまり実装とは、特別な場面だけ取り出すものじゃなくて、日常そのものに溶け込んでいる状態のことです。

「普段は前向き一斉、時々ペアやグループ」というスタイルだと、対話は日常ではなく「イベント」になってしまいます。イベントとして終わるなら、それは単なるお祭り騒ぎです。

だから、「コの字型が絶対に正解だ」とか「グループ学習こそがすべてだ」と言いたいわけじゃありません。

問いたいのはただ一つ。

子ども同士が自然に関わりながら学ぶ姿は、あなたの教室やチームの「空気」や「日常」になっているだろうか、ということです。

主体的・対話的で深い学びは、単なる便利な授業テクニックなのでしょうか。それとも、組織の文化そのものなのでしょうか。

私たちが本当に求められているのは、小手先のテクニックの改善なんかではなく、組織のOSそのものの入れ替えなのかもしれません。

あなたの周りにある教室やチームには、人が自然と対話したくなる「日常の空気」が流れていますか。

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