「またあの子か…」
学校現場では、そんな言葉が出てしまうことがある。
授業中に立ち歩く。
暴言を吐く。
反抗する。
友達とトラブルになる。
無気力になる。
もちろん、集団生活にはルールが必要である。
しかし私は、子どもの姿を見るたびに、いつも考える。
その行動は、本当に「問題」なのだろうか。
もしかすると、その子なりのSOSなのではないだろうか。
最近、「子どものせいにしない」という言葉をよく考える。
もちろん、何でも許すという意味ではない。
ただ、目の前の行動だけを見て、
「この子が悪い」
で終わってしまうと、大切なものを見失ってしまう気がするのである。
樺沢紫苑さんは、人の幸福には順番があると言う。
まず、セロトニン的幸福。
健康。
安心。
安定。
次に、オキシトシン的幸福。
つながり。
信頼。
居場所。
そして最後に、ドーパミン的幸福。
挑戦。
達成感。
成長。
つまり、人は安心できて、誰かとつながれて初めて、前向きに挑戦できるのである。
逆に言えば、安心感やつながりを失ったとき、人は不安定になる。
イライラする。
攻撃的になる。
黙り込む。
無気力になる。
それは大人でも同じである。
余裕がないとき、人は優しくなれない。
だから私は、「問題行動」という言葉を見るたびに、その背景を考えたいと思う。
この子は、安心できているだろうか。
この子には、「自分はここにいていい」と思える場所があるだろうか。
本当は、
「分かってほしい」
「助けてほしい」
「認めてほしい」
そんな思いを抱えているのではないだろうか。
以前、ある子が授業中に荒れたことがあった。
注意されても反発する。
友達にも強く当たる。
周りから見れば、「困った子」に見えるかもしれない。
しかし、話を聞いていくと、その子はずっと「どうせ自分なんて」と思いながら過ごしていた。
頑張っても認められない。
失敗すると怒られる。
家でも学校でも安心できない。
そんな毎日の中で、自分を守る方法が、「反抗」だったのである。
人は、安心感を失うと、防御的になる。
これは子どもだけではない。
大人も同じである。
だからこそ、教育に必要なのは、「どう抑えるか」だけではなく、「どう安心をつくるか」なのだと思う。
最近、「心理的安全性」という言葉をよく聞くようになった。
失敗しても大丈夫。
分からないと言っても大丈夫。
助けてと言っても大丈夫。
そんな空気のことである。
私は、これはセロトニン的幸福とオキシトシン的幸福が満たされている状態なのだと思っている。
安心できる。
そして、つながれている。
だから、人は挑戦できる。
逆に、安心もつながりもない場所では、人は自分を守ることで精一杯になる。
学校は、子どもを「管理」する場所ではない。
人が人として、安心して生きられる土台を育てる場所である。
もちろん、時には厳しさも必要である。
しかしその厳しさは、「突き放す厳しさ」ではなく、
「あなたを大切に思っている」
という安心感の上にある厳しさでありたい。
「毎日がスペシャル」
私はこの言葉が好きである。
何気ない毎日。
いつもの教室。
いつもの声かけ。
実はそういう小さな積み重ねが、人の心を支えている。
子どもたちは、環境を映す鏡なのかもしれない。
だからこそ、まず大人が、安心できる空気をつくっていきたい。
学校は、幸せになるための土台を育てる場所なのである。

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