第2回 安心できない教室では、人は育たない 〜セロトニン的幸福と学校〜

朝、学校へ向かう足取りが重い。

教室へ入る前から緊張している。

先生に当てられたらどうしよう。
また怒られるかもしれない。
失敗したら笑われるかもしれない。

そんな気持ちを抱えながら、一日を過ごしている子どもたちがいる。

そして実は、大人も同じである。

職員室へ向かう足取りが重い。
また注意されるかもしれない。
失敗できない。
迷惑をかけられない。

学校という場所が、「安心」より先に、「緊張」で始まってしまうことがある。

私は最近、教育の土台には「安心感」が必要なのだと強く感じている。

樺沢紫苑さんは、幸福には三つの種類があると言う。

セロトニン的幸福。
オキシトシン的幸福。
ドーパミン的幸福。

その中でも土台になるのが、セロトニン的幸福である。

健康。安心。安定。

心と体が落ち着いている状態。

これは単なる「気分」の話ではない。

睡眠。
生活リズム。
朝日を浴びること。
ホッとできること。
安心して話せること。

そういったものが、人の土台をつくっている。

そして、最近よく使われるようになった言葉に、「心理的安全性」がある。

簡単に言えば、

「この場所では、自分を出しても大丈夫」

と思える状態である。

失敗しても大丈夫。
分からないと言っても大丈夫。
助けてと言っても大丈夫。

そう思える空気である。

私は、この心理的安全性という言葉は、セロトニン的幸福とオキシトシン的幸福を合わせた状態なのではないかと思っている。

まず、セロトニン。

心と体が安定し、安心できている状態。

怒鳴られない。
過度に否定されない。
ビクビクしなくていい。

これが土台になる。

しかし、それだけではまだ足りない。

次に必要なのが、オキシトシン的幸福である。

人とのつながり。
信頼関係。
「自分はここにいていい」と感じられること。

つまり心理的安全性とは、

「安心できる」だけではなく、

「つながれている」

という感覚まで含まれているのだと思う。

だから、人は安心できて初めて、人とつながることができる。そして、人とつながれて初めて、挑戦できるのである。

ところが学校は、ともすると「挑戦」を急ぎすぎてしまう。

もっと頑張れ。
もっとやれる。
主体的に。
積極的に。

もちろん、それは大切なことである。

しかし、安心できていない子にとって、その言葉は時にプレッシャーになる。

心が疲れている子に、
「頑張れ」は届きにくい。

安心できていない子に、
「挑戦しよう」は苦しくなる。

だからこそ私は、「安心」は甘えではなく、成長の土台なのだと思う。

例えば、教室に入った瞬間、

「おはよう」

と笑顔で言ってもらえるだけで、救われる子がいる。

失敗したときに、

「大丈夫だよ」

と言ってもらえるだけで、もう一回やってみようと思える子がいる。

誰かが自分を見てくれている。

その感覚が、人を前向きにする。

逆に、人は安心感を失うと、防御的になる。

イライラする。
攻撃的になる。
黙り込む。
無気力になる。

だから私は、「問題行動」という言葉を見るたびに、その背景にある不安や孤独を考えたいと思っている。

もちろん、ルールは必要である。

しかし、行動だけを切り取って叱るだけでは、本当の解決にはつながりにくい。

その子は今、安心できているだろうか。

学校に居場所はあるだろうか。

「いていい」と感じられているだろうか。

そこを考えることが、教育の出発点なのではないかと思う。

また、これは子どもだけの話ではない。

教師も安心できなければ、子どもに安心感を与えることは難しい。

失敗できない空気。
相談できない空気。
常に追われ続ける空気。

そんな状態では、人は余裕を失っていく。

学校の空気は、子どもたちに伝わる。

だからこそ、安心感のある学校づくりは、子どものためだけではなく、大人のためにも必要なのだと思う。

「毎日がスペシャル」

私はこの言葉が好きである。

何気ない朝。
いつもの教室。
いつもの「おはよう」。

実はそういう日常こそ、人の心を支えている。

特別なイベントよりも、
安心して過ごせる毎日の方が、人を育てるのかもしれない。

まず健康。
まず安心。

そこから、人は人とつながれる。

そして、挑戦できる。

学校は、幸せになるための土台を育てる場所なのである。

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