――動物園で考えた、子供を信じる教育と学習環境
1 その違いは、どこから生まれるのだろう
先日、2年生を連れて阿蘇カドリー・ドミニオンに出掛けた。
そこで、ある学校の見学の様子が目に留まった。その学校では、学級担任が子供たち全員を引き連れ、学級単位で動物園を回っていた。一方、本校では、子供たちがグループごとに見学の計画を立て、それぞれの目的地を回っていた。
どちらにもメリットとデメリットがある。
全員で行動すれば、人数確認や時間管理がしやすく、安全面でも目が届きやすい。一方、グループで行動すれば、子供たち自身が考え、相談し、判断する場面が生まれる。当然、意見が合わなかったり、行きたい場所が違ったり、人間関係の問題が生じたりすることもある。
大人にとって、どちらが効率的かと問われれば、全員で行動する方が効率的な場面も多いだろう。
しかし、私は本校のような見学の在り方に、より大きな教育的価値を感じた。
なぜだろう。
それは、子供たちが自分たちで考え、仲間と相談し、時には意見の違いを乗り越えながら行動する機会が保障されているからだ。
子供たちを目的地まで連れていくことと、子供たちが自分たちで目的地にたどり着く力を育てること。この二つは、似ているようで大きく違う。
もちろん、教員の配置や児童の実態、安全上の配慮など、それぞれの学校に事情がある。全員で行動すること自体が悪いわけではない。
それでも、私は考えずにはいられなかった。
せっかくの校外学習である。動物を見るだけでなく、仲間と協力すること、自分の考えを伝えること、相手の考えを受け入れること、集団でよりよく行動することも、子供たちが学べる大切な機会ではないだろうか。
2 失敗やトラブルを避けることが、最善なのか
子供たちに任せれば、思いどおりに進まないこともある。
計画どおりに回れないかもしれない。意見がぶつかるかもしれない。誰かが不満を感じるかもしれない。
しかし、それらは本当に、すべて避けるべきことなのだろうか。
もちろん、安全を脅かす事態や、誰かが傷つくことを放置してよいわけではない。教員には、事前に見通しをもたせ、必要な支援を行い、問題が起きたときには適切に介入する責任がある。
その上で、子供たち自身が解決できる問題まで大人が先回りして解決してしまえば、子供たちが考え、判断し、折り合いを付ける機会を奪ってしまうこともある。
「どうしたら、みんなが行きたい場所を回れるだろう」
「時間が足りなくなったら、どうしよう」
「意見が分かれたとき、どうやって決めよう」
こうした問いに向き合う経験そのものが、学びになる。
文部科学省の『生徒指導提要』では、子供たちが自ら考え、選択し、決定する経験の重要性が示されている。また、学習指導要領が目指す「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けて、子供たちの自己決定の場を広げていくことが求められている。
子供たちに任せるとは、ただ自由にさせることではない。
自分で考え、仲間と協力し、失敗から学び、次の行動をよりよくしていく。そのための機会と支援を用意することだ。
大人がすべてを決めれば、活動は予定どおりに進みやすい。しかし、予定どおりに進んだことと、子供たちが成長したことは、必ずしも同じではない。
私たちは、何をもって校外学習の成功と考えるのだろう。
予定した動物をすべて見られたことだろうか。それとも、仲間と相談しながら、自分たちの力で見学をつくり上げたことだろうか。
その両方を目指すこともできる。だからこそ、大人の管理のしやすさだけでなく、子供たちにどのような学びが生まれるかという視点をもちたい。
3 この構図は、教室の机配置にも表れていないか
私は、このとき感じたことが、日常の教室にもつながっているように思う。
教室に入ると、机が一斉に前を向いて並んでいる。
それは、ごく自然な光景である。教師の説明を聞く、黒板を見る、全員で同じ課題に取り組む。そのような活動では、前向きの配置が適していることもある。
しかし、毎時間、どの学習でも、その配置が最善なのだろうか。
仲間と考えを伝え合いたいとき。友達の表情を見ながら話を聞きたいとき。互いの考えを比較したいとき。困っている友達に気付き、助け合いたいとき。
前向きの配置が、そうした活動を生み出しやすいとは限らない。
動物園で、全員が担任の後ろを歩き、同じ場所を見て、同じタイミングで次の場所へ移動する。
教室で、全員が前を向き、教師の話を聞き、教師の指示で次の活動へ移る。
もちろん、この二つは同じものではない。しかし、もし、どちらにも「大人が決めた流れに子供を合わせること」が優先されているとしたら、そこには共通する課題があるのではないだろうか。
子供たちは、自分たちで考え、仲間と学ぶ主体になっているだろうか。それとも、大人が用意した活動をこなす存在になっていないだろうか。
机の配置を変えれば、それだけで主体的な学びが生まれるわけではない。コの字型にしても、グループ型にしても、教師が一方的に話し、子供たちが聞くだけなら、学びの姿は大きく変わらない。
大切なのは、机の形そのものではない。
机の配置を、教師の説明のしやすさだけで決めるのではなく、子供たちがどのように学ぶのかという視点から考えることだ。
教師の話を聞く時間には前向きにする。互いの考えを深める時間にはコの字型にする。共同で課題を解決する時間にはグループ型にする。
そのように、学習の目的に応じて環境を変えることができる。
教室の環境は、子供たちにどのように学んでほしいのかという、教師の願いを映し出す。
だからこそ、まずは教室の「当たり前」を問い直してみたい。
4 子供を信じるとは、任せきることではない
ここまで述べてきたことは、教師が指示を出してはいけないという意味ではない。
子供たちの発達段階や実態によっては、具体的な指示や手厚い支援が必要な場面もある。安全を確保するために、大人が判断しなければならないこともある。
大切なのは、何でも子供に任せることでも、何でも大人が決めることでもない。
今、この子供たちには何が必要なのか。どこまで自分たちで考えられるのか。どのような支援があれば、自分たちの力でできるようになるのか。
そこを見極めることが、教師の専門性ではないだろうか。
最初からすべてを任せる必要はない。
まずは、二つの見学先のどちらを先に回るか、子供たちに相談させてみる。次に、グループの中で役割を決めてみる。慣れてきたら、時間配分や見学順序も自分たちで考えてみる。
教室でも同じだ。
まずは、隣の友達と考えを伝え合う。次に、互いの考えの違いを比べてみる。そして、グループや学級全体で考えを深めていく。
小さな自己決定の積み重ねが、やがて自分たちで学びをつくる力につながっていく。
子供たちを信じるとは、子供たちに失敗がないと思うことではない。失敗する可能性があっても、適切な支援をしながら、その経験を成長につなげようとすることだ。
そして、子供たちが自分たちでできるようになったとき、教師は一歩引くことができる。
教師が手を出さなくても、子供たちが学びを進められる。その姿を育てることも、教師の大切な仕事である。
5 初任者の先生方へ――目の前の「当たり前」を問い直そう
教師になったばかりの頃は、授業を予定どおりに進めること、子供たちを静かにさせること、学級全体を整然と動かすことに意識が向きやすい。
それは、決して悪いことではない。学級経営の基盤を整え、安全で安心できる環境をつくることは、教師の大切な役割である。
しかし、そこで立ち止まって考えてほしい。
子供たちが静かにしているのは、安心して学んでいるからだろうか。それとも、自分の考えを出す必要がないからだろうか。
子供たちが指示どおりに動いているのは、自分たちで考えた結果だろうか。それとも、指示を待つことに慣れているからだろうか。
教室が整然としていることと、子供たちが主体的に学んでいることは、同じではない。
子供たちが自分で考え、仲間と相談し、時には意見をぶつけ合いながら、よりよい方法を見つけていく。そうした姿を育てるためには、教師自身が、これまで当たり前だと思っていた方法を見直すことも必要になる。
文部科学省が示す「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実も、こうした視点とつながっている。子供一人一人のよさや可能性を生かしながら、異なる考えをもつ仲間と学び合い、よりよい学びを生み出していくことが重視されている。
明日、教室の机を少し動かしてみる。
子供たちに、これまで教師が決めていたことを一つ任せてみる。
友達と相談する時間を、少しだけ増やしてみる。
その小さな変化が、子供たちの姿を変えるきっかけになるかもしれない。
もちろん、うまくいかないこともあるだろう。そんなときこそ、子供たちと一緒に考え、よりよい方法を探していけばよい。
私たちが目指したいのは、教師の指示がなければ動けない子供ではない。教師の支援を受けながら、少しずつ自分で考え、仲間と協力し、自分たちの生活や学びをよりよくしていける子供である。
動物園で見た子供たちの姿から、改めて考えた。
子供たちを目的地まで連れていくことが、私たちの仕事なのだろうか。それとも、子供たちが自分たちの力で目的地に向かえるようにすることが、私たちの仕事なのだろうか。
その答えは、動物園での活動にも、毎日の授業にも、教室の机の配置にもつながっている。
目の前の子供たちの可能性を信じること。
そして、その可能性が発揮される環境をつくること。
まずは、教師である私たち自身が、目の前の「当たり前」を問い直すところから始めてみたい。


コメント