親はきっと、子どもに「幸せになってほしい」と願っている。教師もそうだと思う。指導者もそうだと思う。
では、「幸せ」とは何なのだろうか。
この問いを考えた時、自分は 樺沢紫苑 さんの話を思い出す。
樺沢さんは、幸せを「脳内物質」の観点から説明している。
セロトニン、オキシトシン、ドーパミン。そして大切なのは、その順番だと言う。
まず安心感のセロトニン。次に人とのつながりによるオキシトシン。その土台の上に、達成や快感のドーパミンが乗る。
つまり、安心できる。つながりを感じる。その上で挑戦し、達成感を得る。これが「幸せ」の構造だという考え方である。
もしそうだとするならば、自分は教育現場に対して強く問いかけたくなる。
今の教室は、本当に“幸せになる場所”になっているのだろうか。
多くの授業では、まず「教師の話を聞く」が中心になる。
説明を聞く。理解する。納得する。
しかし、それは脳内物質で言えば、最後のドーパミンの段階なのである。
その前に必要な、「安心感」「つながり」「この場にいていい感覚」、つまりオキシトシンが抜け落ちたまま、最後の“理解”だけを取りに行っている。
だから、「主体的・対話的で深い学び」と言いながら、実際には受動的・一方向的な学びになってしまう。
ここに、自分は「口茸(くちだけ)」の正体があると思っている。
理念は語る。幸せを語る。主体性を語る。でも、環境が真逆なのである。
前向き姿勢で並ぶ。教師を見る。教師の話を聞く。
その配置を“当たり前”にしたまま、「対話が大事」と言っている。
いや、本当にそうだろうか。
目を合わせる構造になっていないのに、どうやってオキシトシンが生まれるのだろうか。
安心して話せる空気を作っていないのに、どうやって主体性が育つのだろうか。
だから自分は問いたい。
まず、座席配置を変えませんか、と。
円形でもいい。コの字でもいい。アイランド型でもいい。
大事なのは、「子ども同士が目を合わせられる構造」を当たり前にすることなのである。
人は、目が合うだけでも安心する。表情が見えるだけで、空気が変わる。
「聞いてもいい」「間違えてもいい」「ここにいていい」
そう感じられる土台の上に、初めて挑戦が乗る。
つまり、オキシトシンの土台の上に、ドーパミンが乗る。
ここを飛ばして、「頑張れ」「主体的に」「考えろ」と言っても、苦しくなる子が出てくるのは当然なのである。
それなのに、なぜ教育現場は、前向き姿勢を“普通”として疑わないのだろうか。
なぜ、「配置」が子どもの脳や感情に与える影響を、本気で考えないのだろうか。
もちろん、全部の授業を円形にすれば解決する、そんな単純な話ではない。
でも少なくとも、「環境が人を作る」という視点は、もっと大切にされるべきだと思う。
幸せになってほしい。主体的になってほしい。対話してほしい。
そう願うなら、まず変えるべきは、「話し方」より「環境」なのではないだろうか。
口だけで終わらせないために。
まず、大人側が構造を変える。
そこからしか、本当の意味での“幸せになる教育”は始まらない。
そう感じている。

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