第10回 なぜ、教室は今も“前向き一斉”なのだろうか

「魚を与えるな」シリーズ

今日は、少し変わった形で書いてみたいと思う。

この文章は、最後まで一人で読まないでほしい。

途中で止めてほしい。
誰かと話してほしい。
そして、また戻ってきてほしい。

なぜなら、

「主体的・対話的で深い学び」

について書きながら、こちらが一方的に語り続けるだけなら、それ自体が矛盾してしまう気がしているからである。

だから今日は、“読む”というより、“参加する”感覚で付き合ってもらえたら嬉しい。

まず、次の言葉を見てほしい。

「前向き一斉」

ここで、少し止まってみてほしい。

この言葉から、あなたは何が見えるだろうか。

どんな景色が浮かぶだろうか。

どんな空気を感じるだろうか。

良い悪いを決めなくていい。

まずは、“見えるもの”を増やしてみてほしい。

もし近くに誰かいるなら、

「この言葉から何が見える?」

と聞いてみても面白い。

・・・

どうだっただろうか。

「静かな教室」
「先生の話を聞いている子ども」
「整っている感じ」
「安心」
「管理」
「受け身」
「昔からの学校」

きっと、人によって見えるものは違う。

でも実は、この「見えるものを増やす」ということ自体が、とても大事なのではないかと思っている。

昔、 福山健一 先生が、

「子どもたちに主体的に追究してほしいなら、まず“見る目”を育てること」

を大切にされていた。

一枚の写真を見せ、

「何が見える?」

と問い続ける。

そこから、「なぜ?」へ進んでいく。

つまり、

いきなり考えさせるのではなく、

まず“見える世界”を広げるのである。

自分は、この話がずっと心に残っている。

だから今回も、いきなり「前向き一斉は良くない」とは言いたくない。

むしろ、

「この構造から、何が見えるだろう?」

を、一緒に考えてみたい。

例えば、

先生が前に立つ。
子どもたちは同じ方向を向く。
静かに話を聞く。

この構造から、何が見えるだろうか。

安心感だろうか。
効率だろうか。
管理のしやすさだろうか。
それとも、話しにくさだろうか。

ここでも、正解は一つじゃなくていい。

ただ、もしここで、

「あれ?主体性って何だろう?」

と問いが動き始めたなら。

その瞬間に、もう学びは始まっているのかもしれない。

では、もう一つ。

もし、教室の座席配置を自由に変えていいと言われたら、どんな形にしたいだろうか。

円形だろうか。
コの字だろうか。
グループだろうか。

そして、その配置だと、

「どんな気持ちになりそうか」

も考えてみてほしい。

・・・

もしかすると、

「話しやすそう」
「安心できそう」
「自分も参加できそう」

そんな感覚が出てきた人もいるかもしれない。

逆に、

「いや、前向き一斉にも良さはある」

という人もいるかもしれない。

それも含めて、対話なのだと思う。

この文章は、「前向き一斉を否定したい文章」ではない。

ただ、

“環境は、人をつくる”

ということを、一緒に見つめ直してみたいのである。

人は、「主体的になれ」と言われて主体になるわけではない。

自分の声が届く。
目を合わせられる。
誰かと考えられる。

そんな環境の中で、

少しずつ、

「自分も、この場をつくっていいんだ」

と思い始める。

だから、自分は問い続けたい。

今の教室は、

「話を聞く人」

を育てているのだろうか。

それとも、

「問いを持つ人」

を育てているのだろうか。

そしてもし、この文章を読んだあと、

誰かと少し話したくなったなら。

あるいは、

自分の教室や、会議や、家庭の空気を少し見直したくなったなら。

その対話の続きこそが、

本当の“主体的・対話的で深い学び”なのかもしれない。

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