「授業のねらいに応じて、座席配置を選べばよい。」
指導主事からも、よく聞く言葉である。
確かに、その通りだ。
教師には授業のねらいに応じて座席配置を選ぶ自由がある。
しかし、私はこの言葉を聞くたびに、ある違和感を覚える。
それは、人間の行動が「選択肢」よりも、「デフォルト(初期設定)」に強く影響されるという視点が抜け落ちているように感じるからだ。
行動経済学では、「デフォルト効果」という現象がよく知られている。
代表例が、臓器提供である。
ヨーロッパでは、「臓器を提供しない」が初期設定(オプトイン)の国と、「臓器を提供する」が初期設定(オプトアウト)の国がある。
どちらも本人が自由に選択できる点では同じである。
しかし、その結果は大きく異なる。
「提供しない」がデフォルトの国では、提供意思表示率は10〜20%程度にとどまる。
一方、「提供する」がデフォルトの国では、90〜99%に達する国もある。
もちろん、この数字だけで実際の移植件数が決まるわけではない。医療体制や家族の同意など、さまざまな要因が影響する。
しかし、この事例が示していることは明確である。
人は、自分で選んでいるつもりでも、想像以上にデフォルトに従っている。
私は、この視点を教育にも当てはめたい。
現在、多くの教室では、一斉授業を前提とした前向きの座席配置が当たり前になっている。
そして、
「必要ならコの字型にすればよい。」
「対話が必要ならグループにすればよい。」
と言われる。
しかし、それで本当に教室は変わるのだろうか。
教師は忙しい。
机を動かすには時間も労力もかかる。
「今日はこのままでいいか。」
そう考えることは決して珍しくない。
その積み重ねが、教室文化になる。
では、なぜ指導する立場の人でさえ、
「授業のねらいに応じて選べばよい。」
という指導になるのだろうか。
私は、その人たちが間違っていると言いたいのではない。
むしろ、その人たち自身も、デフォルトの中で育ち、教師になり、経験を積んできたからだと思う。
自分が子どもの頃から見てきた教室。
教師になってから毎日見てきた教室。
初任者研修でも、学校訪問でも、研究授業でも見続けてきた教室。
そのほとんどが、一斉授業を前提とした前向きの教室だった。
だから、
「基本は一斉。」
「必要なときだけグループ。」
という考え方が、ごく自然な常識になっている。
しかし、その「常識」そのものが、デフォルトによってつくられたものではないだろうか。
デフォルトは、人の思考を縛る。
そして、その中にいる人ほど、自分がデフォルトに縛られていることに気づきにくい。
だから、「必要なら選べばよい」という言葉になる。
しかし、人は本当に「必要なら選ぶ」のだろうか。
行動経済学は、そうではないことを示している。
多くの人は、「最初から用意されているもの」を、そのまま受け入れる。
だからこそ、私は教室のデフォルトを問い直したい。
もちろん、一斉授業を否定したいわけではない。
知識や技能を効率よく共有する場面では、一斉授業が適していることもある。
しかし、その「効率」は、誰にとっての効率なのだろう。
教師が教えやすい効率なのか。
それとも、子どもが学び、考え、対話し、協働し、主体的に成長する効率なのか。
この二つは、必ずしも一致しない。
もし、私たちが本気で主体性や協働性、対話力、自己調整力などの非認知能力を育てたいのであれば、授業改善だけでは足りない。
教室という環境そのものを見直す必要がある。
もし学校のデフォルトが逆だったらどうだろう。
最初からコの字型やグループ型が当たり前で、一斉授業をしたいときだけ机を前向きにする学校だったら。
子どもたちは毎日、自然に友達の顔を見て話し、自分の考えを伝え、相手の考えを受け止める。
協働することが、「特別な活動」ではなく、「当たり前の学び」になる。
もちろん、座席配置だけで非認知能力が育つわけではない。
教師の発問も、授業づくりも、人間関係づくりも欠かせない。
しかし、毎日何時間も過ごす学習環境のデフォルトが、子どもの学び方や人との関わり方に影響しないと考える方が、私は不自然だと思う。
教育は、「何を教えるか」だけではない。
「何を当たり前にするか」である。
だから私は、「授業のねらいに応じて座席配置を選べばよい」という考え方だけでは不十分だと思っている。
本当に議論すべきなのは、
「どの座席配置を選ぶか」ではない。
「学校のデフォルトを何にするか」である。
私は、座席配置の話をしているのではない。
教育観の話をしているのである。

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