「選手主体」と言いながら、コーチがずっと喋っていないか

最近、私の住む地域に新しいサッカーチームが立ち上がった。

掲げているフィロソフィーがすごくいい。

サッカーがうまい選手を育てることだけがゴールじゃない。

サッカーを通して、ひとりの人間として育てる。

だからこそ、指導者自身が学び続け、選手が主役のチームをつくっていく。

私は、こういう挑戦をするチームを応援したい。

今のサッカー界に本当に必要なのは、新しい練習メニューなんかじゃないと思っているからだ。

選手主体という言葉は、もう珍しくない。

多くのチームが自立や自主性を口にする。

どれも素晴らしい理念だ。

でも、少しだけ立ち止まって考えてみたい。

本当に選手が主体になっているだろうか。

練習が始まれば、コーチの大きな声が響く。

そこ! もっと右! 早く! 逆! 何やってるんだ!

ベンチから次々と指示が飛ぶ。

ハーフタイムになればホワイトボードの前に集められ、終われば今日の反省をコーチが語る。

選手はそれをただ聞いている。

これで本当に、選手主体と言えるのだろうか。

これは学校の教室にもよく似ている。

私は学校にいるから、どうしても教育の現場と重ねてしまう。

教室では先生が前に立つ。

先生が説明して、問いかけて、答えを確認して、評価する。

子どもたちはそれをただ聞く。

もちろん教えることは大切だ。

でも、それだけでは子どもが主体になる環境なんて生まれない。

主体的に学びましょうと言いながら、授業の大半を教師がしゃべっている。

これは、サッカーで選手主体と言いながらコーチが指示を出し続ける姿とまったく同じだ。

つまり、言葉の理念を変えるだけでは、現場は何も変わらない。

新しいOSを入れるだけでは動かない。

指導者が悪気があってやっているわけじゃない。

むしろ選手のためを思って必死なのだ。

ライセンスを取り、研修に行き、新しい理論も勉強している。

それでも、気がつくと昔と同じ指導に戻ってしまう。

なぜだろう。

頭の中の構造、つまりOSがそのままだからだ。

指導者が教えて、選手は教えてもらう。

正解は指導者が持っていて、選手はそこに合わせる。

この構造が変わらないまま、新しい言葉を上に被せても意味がない。

150年前から続く先生が前、子どもが後ろという教室の仕組みをそのままにして、主体的で対話的な学びをしようと言っても無理がある。

だから必要なのは、やり方を少し変えることじゃない。

環境そのものをガラリと変えることだ。

選手にもっと主主体になれと言うのをやめる。

代わりに、主主体にならざるを得ない環境をつくる。

指導者が答えを先に言わず、問いを返す。

自分たちで考えて、決めて、失敗して、振り返る。

その繰り返しの中でしか、本当の判断力は育たない。

これは私が学んできたボトムアップ理論にもつながる考え方だ。

指導者が何を教えるかではなく、選手が動き出せる環境をどうつくるか。

これからの指導者に求められるのは、教える人から環境をつくる人へのシフトなのだろう。

すべての答えを大人が持っている必要はない。

どうしたい? 何が課題だと思う?

そんな問いを投げかけながら、選手が動き出す背中をそっと押す。

大人が主役の舞台ではなく、子どもたちが主役になれる場所をつくる。

簡単なことじゃない。

待つこと、任せること、自分がしゃべりたいのをぐっとこもることは勇気がいる。

だからこそ、大人が学び続けなければならない。

この地域にできた新しいサッカーチームに、私は大きな期待を寄せている。

理念通りの実践がすべてできているかは分からないし、結果だけですべてを評価するつもりもない。

私が応援したいのは、自分たちの指導そのものを変えようと泥臭く学んでいるその姿勢だ。

人を変えようとせず、環境を変える。

選手に求めるのではなく、仕組みをつくる。

その挑戦は、サッカーだけでなく学校でも会社でも同じはずだ。

あなたの周りには、人が挑戦したくなる環境がありますか。

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