「今日は、グループで話し合ってみましょう」

教師がそう言う。
子どもたちは机を動かし、向かい合い、しばらく話して、授業が終わる。
次の時間には、また全員が前を向く。教師が前に立ち、問い、子どもが答え、また教師が説明する。
そんな教室を、私たちは何気なくつくっていないだろうか。
ここで、一つだけ考えてみたい。
それで、本当に「対話する学級」になっていくだろうか。
味噌をつくるときを思い浮かべてみる。
大豆があり、麹があり、塩がある。発酵が進むための条件が整えられ、時間をかけて変化していく。
大事なのは、「一度、豆同士をくっつけること」ではない。
発酵が起こり続ける条件が、仕込まれていることだ。
今日だけ豆を近づけ、明日は離し、来週また少し混ぜる。
そんなことをして、「なぜ、この豆は味噌にならないんだろう」とは誰も言わない。
だったら、教室はどうだろう。
普段は全員が黒板を向いていて、ある時間だけ机を動かして「グループで話し合う」。
もちろん、それは大切な活動だ。
でも、ここで考えたい。
対話が起こることが「特別なイベント」になっていないだろうか。
普段のデフォルトが「教師を見る」「教師の問いを待つ」「教師に答える」なのであれば、「仲間を見る」「自分から声を掛ける」「友達の考えを聞く」という行動は、毎回わざわざ起こさなければならない。
つまり、対話を教えているのではなく、対話を一時的なイベントとして発生させているだけなのだ。
「たまに対話する時間がある教室」と、「対話することが自然な教室」は、似ているようでまったく違う。
デフォルトとは、特別な指示をしなくても、自然とそうなる状態のことだ。
電源を入れたらその状態になる。何もしなければそこに戻る。
ならば、教室で教師が何も言わなかったとき、子どもたちは何をするだろう。
教師を見るのか。隣を見るのか。黙って待つのか。誰かに声を掛けるのか。
私たちは「主体的・対話的で深い学び」を実現しようとして、発問を変え、教材を変え、グループ活動を入れる。
でも、その前に問いたい。教室のデフォルトは変わっているだろうか。
「対話の時間」だけ仲間を向き、「主体的に活動する時間」だけ自分で考える。これでは、子どもからすれば「いつもの教室」と「特別な学習活動」が別物になってしまう。
だから、座席配置をコの字型にしたり、グループ型にしたりすること自体が目的なのではない。
重要なのは、「その配置で、何がデフォルトになるのか」だ。
前向き一斉なら教師を見ることが自然になり、コの字なら仲間の顔を見ることが自然になりやすい。
配置を固定することではなく、目的に応じてデフォルトを設計すること。それが問われている。
味噌は、たまに豆をくっつけたから味噌になるのではない。
発酵が起こり続ける条件を、最初から仕込むからこそ、時間の中で変化していく。
教育も同じだ。
「今日は話し合わせよう」ではなく、「話し合いが自然に起こる教室にしておこう」。
「今日は助け合わせよう」ではなく、「困ったら自然に誰かに聞ける関係を、普段から仕込んでおこう」。
「この子たちは主体性がない」
そう思ったとき、子どもを見る前に、教室を見てみる。
今、この教室のデフォルトは何だろう。
子どもを変える前に。
活動をまず増やす前に。
「この教室では、何がデフォルトになっているのか」を見つめ直したい。
そこに気づいた瞬間、「もっと子どもを変えなければ」という教育から、「変わり合える環境を仕込もう」という教育へ、視点が静かに切り替わっていく。
そして、その転換こそが、「教室を醸す」ということなのではないだろうか。
今日の帰り道、もし教室や職場の光景を思い返したなら、こう自分に問いかけてみたい。
「私たちがいるその場所は、何もしなくても何が自然に起こる空間になっているだろうか」
明日、誰かに何かを指示する前に、ほんの少しだけ、その「デフォルトの空気」をデザインし直してみる。
そんな小さな工夫から、今日の続きを始めてみたい。

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