学校の中にいると、「昔からこうだから」という理由だけで、何となく続いてきたルールや行事に出会います。
あいさつ運動、練習に追われる運動会の組体操や集団行動、一言もしゃべらずに行う黙々清掃、形だけの服装頭髪指導、卒業式の厳格な礼の練習。
そして、教室の「一斉前向き」の座席配置。
どれも一生懸命に取り組まれている素晴らしい営みなのに、ふと立ち止まってみると、「あれ、これって何のためにやっているんだっけ?」と胸のモヤモヤが広がることはありませんか。
先生や保護者にとっては、それが「当たり前」の景色かもしれません。
黒板の方を向いて、みんなで先生の話をしっかり聞く。行儀がいい、そんなふうに映るかもしれません。
でも、ちょっと待ってほしいんです。
一番後ろの席の子から教室を見渡してみたら、どう見えるでしょう。
目の前には、自分と同じように前を向いた級友たちの頭がずらっと並んでいるだけ。自分の存在がすっぽり隠れてしまうような、そんな無機質な景色が広がっています。
逆に、一番前の席の子はどうでしょうか。
誰に見られているかわからない。後ろからずっと視線を浴びているような、まるで背中に何かを刺されるかのような、妙な緊張感の中で過ごしている子もいます。
なぜ、私たちはこんなにも「型」や「強制」にこだわってしまうのでしょう。
毎朝の校門でのチェックや、声を出しちゃいけない掃除の時間。運動会前のピリピリした空気感や、窮屈な一斉前向きの教室。
子どもたちの自主性を育てたいと願っているはずの場所で、いつの間にか「言われた通りに動くこと」が目的になってしまう瞬間があります。
指導する側も、される側も、どこか心がすり減っていくような感覚を抱えながら、「みんなやっているから」とやり過ごしてしまう。
でも、本当にそれでいいのでしょうか。
ここで大切にしたいのは、行事や指導そのものを全否定することではありません。問題なのは、「目的」と「手段」がいつの間にか入れ替わってしまうことです。
たとえば、整然と並ぶことや時間を守ることは、集団生活を円滑にするための便利な「手段」のはずです。それが、いつの間にか「従わせるための目的」になってしまうと、子どもたちの内側から湧き出るエネルギーや主体性はしぼんでしまいます。
教室の座席をずっと一斉前向きに固定し、先生の背中を見続ける毎日。それでは、子ども同士の豊かな対話や、自分たちで学びを創る楽しさはなかなか生まれません。
環境は、人の心を縛ることもあれば、逆に自由にすることもできるからです。
人は、誰かに強制されたときではなく、「自分で選んだ」「意味が分かった」と感じたときにこそ、大きく成長します。
これは学校の教室に限った話ではありません。スポーツのチームづくりでも、家庭での子育てでも、そして大人が働く職場でも同じです。
「これをやらせなきゃいけない」というプレッシャーを手放して、「どうすればこの子たちが自分から動き出したくなるだろう?」と視点を変えてみる。
ルールでガチガチに固めるのではなく、内側から熱量が生まれるような「環境」をデザインすること。それこそが、私たちが本当に向き合うべき本質なのだと思います。
明日から、目の前の子どもや仲間たちと向き合うとき。
「ちゃんと言い聞かせよう」とする代わりに、ちょっとだけ問いかけてみませんか。
「今、この瞬間、私たちはどんな気持ちでこれをやっているだろう?」と。
あなたの周りには、人が自分の意思で挑戦したくなるような、温かい空気感の環境がありますか。

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