主体的・対話的で深い学びの“実装”というなら、まず一斉前向き座席配置を問い直してほしい

次期学習指導要領に向けて、「主体的・対話的で深い学び」はさらに重要なキーワードになっていくのだと思います。しかし、私はずっと感じています。もし本当に、「主体的・対話的で深い学び」を“実装”するというなら、文部科学省がまず最初に言うべきことは、「座席配置を見直してください」ではないでしょうか。

学校現場では、よく聞きます。

「今日は話し合いがあるから、グループにしよう。」

でも、その言葉に私は大きな違和感があります。なぜなら、その時点で、

* 普段は前向き一斉
* 基本は個人解決
* 必要な時だけ交流
* 対話は特別活動

という前提が存在しているからです。つまり、“対話”が日常ではなく、イベントになっている。

そもそも、「実装」という言葉を使うなら、それは、常時・日常的に・空気のように・当たり前に存在している状態を指すはずです。必要な時だけやるものを、本当に“実装”と言えるのでしょうか。

少し、隣の先生と話してみてください。

【対話①】
「あなたの教室では、“対話”は活動ですか? それとも日常ですか?」

30秒ずつで構いません。「なぜそう感じるのか」まで、ぜひ三往復してみてください。

私は最近、強く感じています。座席配置は、単なる机の並べ方ではありません。そこには、「学びとは何か」という教師の思想が表れています。

例えば、一斉前向き配置。これは極めて合理的です。教師中心で進めやすく、一斉指導もしやすい。管理もしやすく、静かにさせやすい。同じ情報を同時に届けやすい。しかし同時に、

* 正解は前から来る
* 発言権は教師が持つ
* 勝手に相談しない
* 個人で解決する
* 教師が学びの中心

という文化も形成します。つまり、空間そのものが、子どもに「学び方」を教えているのです。

学校では、「主体性」「対話力」「協働性」を育てたいと言います。しかし、実際の構造はどうでしょう。

* 勝手に話してはいけない
* 必要な時だけ相談
* 教師が指名した時だけ発言
* 基本は個で考える
* 間違えないように話す

そんな構造になっていないでしょうか。

つまり、「主体性を育てたい」と言いながら、主体性を使わなくても成立する構造。「協働性を育てたい」と言いながら、協働しなくても授業が完結する構造。この矛盾を、もっと正面から議論すべきではないでしょうか。

例えば、サッカークラブ。そこが、

* ボールを蹴らない
* 試合をしない
* 仲間と相談しない
* コミュニケーション禁止

だったら、どうでしょう。家に帰った子どもが、「今日もボールを蹴らなかった」と言ったら、多くの保護者は、「それ、本当にサッカークラブなの?」と思うはずです。

では学校はどうでしょう。

「対話力を育てたい」と言いながら、本当に日常的に対話しているでしょうか。「協働性を育てたい」と言いながら、本当に協働が前提になっているでしょうか。

もちろん、一斉指導にも価値はあります。全てを否定したいわけではありません。しかし、「主体的・対話的で深い学び」を本気で進めるなら、文部科学省は、「必要に応じてグループを」ではなく、「教室構造そのものを問い直してください」と、もっと強く打ち出すべきではないでしょうか。

「期に応じて」「必要に応じて」——その曖昧さの中で、結局、多くの教室は100年前と同じ構造のままです。

発問を工夫する前に。ICTを入れる前に。活動を増やす前に。まず、

* 子ども同士が見える
* 話せる
* 聞ける
* 相談できる
* 共に考えられる

構造に変える。

主体的・対話的で深い学びは、授業技術ではなく、教室文化の問題なのだと思います。

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