困った子がいる。
落ち着かない子、立ち歩く子、友達に話しかけてしまう子、前を向き続けられない子。
でも、本当に“困っている”のは誰なのだろう。
少しだけ考えてみてほしい。
もし大人の会議が、毎日何時間も、全員同じ方向を向き、私語禁止で、「必要な時だけ発言してください」という空間だったらどうだろう。
しかも、間違えたら空気が凍る。
隣の人と小声で確認しただけで注意される。
そんな空間に毎日7時間いたら、大人だって苦しくなる。
それなのに、子どもには、
「落ち着きがない」
「集中しなさい」
「話を聞きなさい」
と言っている。
もちろん、静かに話を聞く時間は必要だ。
でも問題は、それが“基本形”になっていることではないだろうか。
学校は何のためにあるのか。
テストの点を取るためか。
管理しやすくするためか。
いや、本来は、幸せに生きる力を育てるための場所のはずだ。
なのに、一日の大半を過ごす教室空間が、緊張と比較と我慢を生みやすい構造だったとしたら。
それは、かなり重大なことではないだろうか。
最近は、セロトニン、オキシトシン、ドーパミンなど、人の安心感や意欲に関わる脳内物質についても語られるようになった。
もちろん、教育を単純に脳科学だけで語ることはできない。
でも少なくとも、
・安心できる
・つながりを感じる
・認められる
・挑戦できる
そんな環境が、人を前向きにすることは、多くの人が実感として知っている。
だとしたら、毎日長時間過ごす「座席配置」は、実はかなり重要なのではないか。
私は時々、今の教室を見ていて、こんなたとえを思う。
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昔、「身体に良い」と信じられていた薬が、実は健康を害していた。
そんな歴史はたくさんある。
本人も、周りも、善意だった。
でも、長い年月を経て、
「あれは身体を壊していた」
と分かる。
もしかしたら、教育にも、そんな“善意の前提”があるのではないか。
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ある人は、「忙しいから」と朝ごはんを抜き続ける。
最初は平気。
でも、少しずつ集中できなくなる。
イライラする。
元気が出ない。
身体は、静かに悲鳴を上げている。
でも本人は、原因に気づけない。
教室環境も、それに少し似ている気がする。
「なんとなく疲れる」
「なんとなく苦しい」
「なんとなく学校に行きたくない」
その“なんとなく”の一部に、空間から受けるストレスは本当にないのだろうか。
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あるいは、植物の話でもいい。
日光が必要な植物を、暗い倉庫で育てながら、
「この植物は弱い」
と言っているようなことはないだろうか。
本当は、植物ではなく、環境の方に課題があるかもしれないのに。
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そして私は、「困った子」がいるたびに思う。
その子は、もしかしたら、
“今の教室構造に、身体が正直に反応している子”
なのかもしれない、と。
もちろん、机を動かせば全て解決するわけではない。
でも、「環境は子どもに影響を与える」
これは、かなり確かなことだと思う。
だから私は、主体的・対話的で深い学びを本気で目指すなら、
まず、教室環境そのものを問い直すべきだと思っている。
授業技術の改革には時間がかかる。
でも、机配置は、今日変えられる。
0.2秒で。
そして、その0.2秒が、子どもたちの安心感を変えるかもしれない。
私は、そんな教育改革があってもいいと思っている。

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