人は「過去」で見るのか。「今」で見るのか

先日、あるサッカー選手のエッセイを読みました。

華やかなゴールや優勝の話ではありません。

心に残ったのは、一つの「失敗」と、その後の人生について綴られた一節でした。

高校時代、大切な公式戦の日程が変更になりました。

変更の連絡は、一週間前にメールで送られていました。

しかし、そのメールは迷惑メールフォルダに振り分けられ、本人が目にすることはありませんでした。

まだLINEも普及していない時代です。

今のようにグループで瞬時に情報共有ができる環境ではありませんでしたし、家庭の事情もあって、すぐに連絡が取れる状況でもありませんでした。

彼は何も知らないまま、最初に知らされていた時刻に合わせて会場へ向かいました。

会場に着いた時には、試合は始まる直前。

周囲に残ったのは、「集合時刻に遅れた選手」という事実だけでした。

その背景を知る人は、ほとんどいません。

彼もまた、言い訳をしませんでした。

「メールが届いていなかった。」

「事情があった。」

そう説明することもできたのかもしれません。

それでも彼は、自分に起きた現実を受け止めました。

その後、試合に呼ばれることはほとんどなくなりました。

悔しかったはずです。

苦しかったはずです。

それでも彼は誰も恨まず、腐ることもなく、毎日の練習を黙々と続けました。

一年後、最後の大会。

新しく就任した監督が、彼をメンバーに選びました。

その監督は、彼が試合に出られなくなった経緯を聞いていました。

それでも、こう話したそうです。

「私は過去を見て選んだのではありません。毎日の練習で、今の彼を見て選びました。人から聞いた話より、自分の目で見た姿を信じたいと思ったのです。」

この言葉に、私は教育の本質があるような気がしました。

学校でも、「あの子はこういう子」「あの先生はこういう人」という言葉が、一人歩きすることがあります。

しかし、その評価は本当にその人のすべてなのでしょうか。

私たちは、過去の出来事や誰かから聞いた話で人を見ていないでしょうか。

それとも、今、目の前にいるその人を、自分の目で見ようとしているでしょうか。

もちろん、過去の出来事をなかったことにはできません。

しかし、その人を過去だけで決めつけてしまえば、変わろうとする姿や、努力を続ける姿まで見失ってしまいます。

教育とは、過去を裁く仕事ではありません。

目の前の子どもを信じ、その子の未来を育てる仕事です。

だからこそ私は、「何があったか」だけではなく、「今、どんな姿を見せているか」を大切にしたい。

人は、過去で決まるのではない。

今日の姿で、そしてこれからの生き方で、何度でも新しい自分をつくることができる。

そんなことを、このサッカー選手の話から教えられました。

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