第2回 働き方改革の本丸は「当たり前」を問い直すことにあるのではないか

働き方改革という言葉を聞くと、多くの場合は業務削減や外部委託、ICTの活用といった対策が思い浮かぶ。しかし、現場に立つ中で感じるのは、それらがどこか対症療法にとどまっているのではないかという違和感である。

なぜ忙しさは減らないのか。
なぜ負担感は変わらないのか。

その原因を考えていくと、一つの結論に行き着く。

教師がすべてを抱え込む構造になっているということである。

授業において、説明するのも、指示するのも、評価するのも、トラブルに対応するのも、すべて教師が担っている。この構造のままでは、いくら業務を削減しても限界がある。働き方改革の本質は、業務量の調整ではなく、この構造そのものを問い直すことにあるのではないか。

ここで一つの視点として、教室の座席配置に目を向けてみたい。

多くの教室では、前向き一斉の配置が当たり前になっている。だが、この形は本当に必然なのだろうか。前を向いて教師の話を聞くことを前提とした配置は、教師中心の授業を自然と生み出す構造でもある。教師が説明し、子どもが受け取る。その流れが無意識のうちに固定化されている。

一方で、グループ型やコの字型の配置にすると、教室の空気は大きく変わる。子ども同士が顔を合わせ、自然と対話が生まれる。分からないことを隣に聞く。考えを出し合う。小さなつまずきを仲間と乗り越える。学びの起点が教師から子どもへと移っていく。

ここで起きているのは、単なる配置の変化ではない。学びの主導権の変化である。

この変化は、教師の働き方にも直結する。すべてを自分で処理していた状態から、子ども同士で回る部分が増えていく。教師は全体を見取り、必要なところに関わる存在へと役割を変えていく。結果として、仕事は減るのではなく、抱え込まなくてもよい状態へと変わっていく。

ここに、働き方改革の本質がある。

ただし、ここで重要なのは、座席配置を変えればすべてが解決するわけではないという点である。形だけを変えても、学びは深まらない。むしろ混乱が生じることもある。

必要なのは、学び方の指導である。話し方、聞き方、役割の持ち方、困ったときの動き方。こうしたルールや文化を育てることで、はじめて学び合いは成立する。配置はきっかけにすぎず、本質はその中でどのような関係性と行動が生まれるかにある。

ここで思い出すのが、歌人の俵万智さんの姿勢である。日本国憲法について語るとき、特別なものとして遠ざけるのではなく、日常の中で意味を問い直すことの大切さを語っている。

そこにあるのは、「当たり前にあるものを、そのまま受け入れるのではなく、自分の言葉で考え直す」という姿勢である。

この視点は、学校にもそのまま当てはまるのではないか。

前向き一斉配置も、長い時間の中で当たり前となってきた。しかし、それが本当に子どもの学びにとって、そして教師の働き方にとって最適なのかは、一度立ち止まって考える必要がある。

当たり前を疑うことは、否定することではない。意味を問い直し、自分たちで選び直すことである。

だからこそ、発想を転換したい。

一部の教室で試すのではなく、学校全体として学び合う構造を前提にする。グループ配置やコの字型を基本とし、その中で学び方を育てていく。最初は違和感があっても、それが日常になれば文化へと変わる。

働き方改革とは、頑張り方を変えることではない。
当たり前を変えることである。

教師が頑張り続けなければ回らない学校から、子どもが学びを支え合う学校へ。その転換の入口の一つが、教室の座席配置にあるのではないかと考えている。

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