第8回 まずサッカーをさせているのか

ここまで、サッカーを例にして教室を見てきた。

今回は、もう一歩踏み込む。

なぜ、こんなにも当たり前のことが、当たり前として扱われていないのか。

関わること。
目を合わせること。
意思をやり取りすること。

これは、学びの前提である。

しかし、それがどこに書かれているだろうか。

学習指導要領の中に、この前提は、どれだけ明確に位置づけられているだろうか。

むしろこれまでの議論は、

・どう教えるか
・どう評価するか
・どんな方法がよいか

そこに偏ってきたのではないか。

もちろん、それらが無意味だとは言わない。

しかし順番が違う。

サッカーで考えてみる。

目も合わせない。
味方とも関わらない。
連動も起きない。

そんな状態で、

「ドリブルの質を上げよう」
「戦術理解を深めよう」

と言っているのと同じである。

成立していない。

それでも教室では、これに近いことが起きている。

・個別最適な学び
・自由進度学習
・評価の観点の整理

どれも大切な視点である。

しかし、それ以前に問うべきことがある。

そもそも、関わりが成立する環境になっているのか。

ここが抜け落ちたまま、方法論だけが積み上がっている。

自由進度学習であっても同じである。

関わりが前提になっていなければ、
それは

一人でドリブルしているだけのサッカー

になる。

それを否定するわけではない。

しかし、それだけではサッカーにはならない。

なぜなら、

サッカーは関係の中で成立するものだからである。

教室も同じである。

どんなに優れた方法でも、
どんなに精緻な評価でも、

関係が生まれない構造の中では、
その効果は限定的になる。

ここで改めて問いたい。

私たちは、本当に「学び」をつくろうとしているのか。

それとも、

成立していない環境の上に、方法を重ねているだけなのか。

岡田武史は、選手に主体性を求めるのであれば、その前提となる環境を整える必要があると繰り返し語っている。

教室も同じである。

個別最適かどうか。
評価がどうか。
方法がどうか。

それは後の話である。

まずやるべきことは一つである。

関わることが当たり前に起きる環境にすること。

目が合う。
声が届く。
反応が返ってくる。

その状態をつくること。

言い換えれば、

サッカーができる状態にすること。

そこが整えば、方法はいくらでも工夫できる。

しかし、そこが整っていなければ、
どんな工夫も空回りする。

少し強く言えば、

順番を間違えている。

だからこそ、今、問い直したい。

まず、サッカーをさせているのか。

その前提が崩れたまま、
次の議論に進んでいないか。

当たり前のことを、当たり前にする。

その覚悟なしに、
学校は変わらない。

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