「主体的な学びをつくりたい」
そう願って、私たちはたくさんのことを学んできた。
• 発問を工夫しよう
• 授業展開を変えよう
• 活動を入れよう
• 対話の場面をつくろう
• ICTを活用しよう
• 個別最適な学びを考えよう
どれも大事である。
どれも間違っていない。
でも、このシリーズをここまで書いてきて、私はますます、あることを強く思うようになった。
それは、主体的な学びをつくるために、
最初に変えるべきものは、“方法”ではなく“環境”ではないか
ということである。
しかもその環境は、何か大掛かりな改革をしなくても変えられる。
予算がなくてもできる。
新しい教材がなくてもできる。
研修を何十時間も積まなくてもできる。
必要なのは、たった一つ。
教室の“デフォルト”を変えることである。
なぜ「デフォルト」がそんなに大事なのか
人は、思っている以上に最初に置かれた状態に引っ張られる。
これは子どもだけではない。
大人も同じである。
たとえば、スマホを買った時、最初から入っている設定をどれだけ変えるだろうか。
通知の設定、文字サイズ、壁紙、アプリ配置。
変える人もいるが、多くの人はかなりの部分をそのまま使う。
「変えられない」わけではない。
でも、変えない。
なぜか。
デフォルトは、それだけで人の行動を規定する力を持っているからである。
これは教室もまったく同じだと思う。
「必要な時だけ変えればいい」は、本当にそうか?
教室の座席配置の話になると、かなりの確率でこう言われる。
「必要な時だけ、ペアやグループ、コの字にすればいいじゃないか」
一見、もっともらしい。
でも、本当にそうだろうか。
少し考えてみてほしい。
1年間の授業時数は、約1,015時間。
その中で、
• 「よし、今日は話し合うから机を動かそう」
• 「今日は交流が必要だからグループにしよう」
• 「今日は特別だからコの字にしよう」
という時間は、実際にどれくらいあるだろうか。
おそらく、想像以上に少ない。
そして何より大きいのは、“必要な時だけ”という発想そのものが、すでに前向き一斉を「通常」、つながる形を「例外」にしている
ということである。
つまり、
• つながることは特別
• 話し合うことはイベント
• 相談することは例外
• 共に考えることは「必要な時だけ」
という文化が、知らないうちに教室に染み込んでいく。
でも、本当に育てたいのは、そういう「特別な場面」でだけ働く力ではないはずだ。
育てたいのは、人とつながりながら考えることが、日常である状態
ではないだろうか。
主体性は、「特別な授業」で育つのではなく、「日常」で育つ
主体性は、年に数回の研究授業で育つものではない。
行事の時だけ育つものでもない。
「今日は特別な活動です」という日だけ育つものでもない。
そうではなくて、毎日の当たり前の積み重ねの中で育つ
ものだと思う。
毎日、
• 顔が見える
• 反応が見える
• ちょっと聞ける
• 小さくつぶやける
• 困ったら頼れる
• 一緒に考えられる
そういう日常があるからこそ、子どもは少しずつ
• 自分で考える
• 自分の言葉で言う
• 人の考えを受け取る
• 自分の考えを修正する
• もう一度試してみる
ということができるようになる。
つまり、主体性は、“イベント”ではなく“生活”の中で育つのである。
だからこそ、その生活を形づくる「デフォルト」が大事なのだ。
ここで思い出したい「臓器提供」の話
この「デフォルトの力」を考える時、よく知られている例がある。
それが、臓器提供の意思表示である。
国によっては、
• 「希望した人だけ提供する(オプトイン)」方式
• 「希望しないと意思表示しない限り提供する(オプトアウト)」方式
の違いがある。
すると何が起きるか。
人々の価値観が劇的に違うわけではないのに、
“最初にどちらが標準設定になっているか”だけで、提供同意率には大きな差が出ることが知られている。
つまり、人は、意志がないから動かないのではなく、デフォルトに強く引っ張られる
のである。
これは教室にも、そのまま当てはまる。
前向き一斉がデフォルトなら、子どもはそこに適応する。
• 黙って聞く
• 前を見る
• 指示を待つ
• 許可されてから話す
それが“普通”になる。
逆に、
• つながる
• 聞き合う
• 相談する
• 共に考える
ことがデフォルトなら、それが“普通”になる。
この差は、想像以上に大きい。
だから、変えるべきは「子ども」より先に「構造」
子どもが主体的にならない時、私たちはついこう考えてしまう。
• もっと意欲を引き出さないと
• もっと考えさせないと
• もっと話し合いをさせないと
• もっと自分から動けるようにしないと
もちろん、その視点も大事である。
でもその前に、もっと根本的な問いがある。
それは、その子どもが主体的になりやすい構造になっているか?
という問いである。
• 話していい空気になっているか
• 聞いてもらえる関係があるか
• つながっていていい配置か
• 相談していい日常か
• 考えを出していい文化か
ここが整っていないのに、「もっと主体的に」と言うのは、かなり酷かもしれない。
だからこそ、変えるべきはまず「子ども」ではなく、子どもを取り巻く構造なのだと思う。
では、明日から何を変えるのか
ここまで読んでくださった方に、最後に一つだけ提案したい。
それは、とてもシンプルである。
明日、机の配置を変えてみませんか。
それだけである。
もちろん、それだけで全てがうまくいくわけではない。
• 最初はざわつくかもしれない
• うまく話せない子もいるかもしれない
• つながり方を学ぶ必要もある
• 聞き方や関わり方の支援もいる
でも、それは「失敗」ではない。
それは、これまで“育つ機会が少なかった力”を、これから育てていくためのスタートにすぎない。
前向き一斉のまま
「話し合えるようになれ」
「主体的になれ」
「対話しろ」
と言い続けるより、
ずっと誠実なスタートだと私は思う。
最後に
このシリーズを通して、私が一番伝えたかったことは、とてもシンプルである。
主体性は、特別な子だけが持つ力ではない。
高学年だけの話でもない。
できる学級だけの話でもない。
一部の名人教師だけの話でもない。
主体性は、本来、人が誰でも持っている“自分で育とうとする力”なのだと思う。
そしてその力は、
• 安心できて
• つながれて
• 自分の考えに意味があり
• 試しても大丈夫な環境
の中で、立ち上がりやすくなる。
だからこそ、私たちが最初に変えたいのは、
授業の「やり方」よりも先に、教室の“当たり前”なのではないだろうか。
たった一つ変えるだけで、教室は変わり始める。
そして、その一つは、実はもう明日から変えられる。
主体的な学びをつくるために、まず変えるべきは、子どもではなく、教室のデフォルトかもしれない。
そんな問いを、私はこれからも持ち続けたいと思う。

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