「魚を与えるな」シリーズ
※「口茸(くちだけ)」という表現、および学校現場に潜む“言行不一致”への問題提起は、立田順一 氏の「妖怪大百科―学校に出没する『妖怪』たち」を参考にしながら、自分自身の現場経験や視点も重ねて書いています。
最近、教育現場でよく思うことがある。
それは、「言葉は立派なのに、現場が変わらない」ということである。
主体性、対話、深い学び、ウェルビーイング、誰一人取り残さない。本当に素晴らしい理念だと思う。
しかし、その言葉を掲げながら、実際には真逆の構造が続いている場面を、現場ではよく見る。
そして自分は時々思う。教育界には、ある妖怪が存在しているのではないかと。
その名も――「口茸(くちだけ)」である。
例えば、「主体的・対話的で深い学び」をテーマにした研修。しかし、その研修自体は一斉・講義型。前には講師、後ろには並ぶ教員。ずっと聞き、メモを取り、最後に「何か質問ありますか?」で終わる。
いや、それで本当に、「主体的・対話的で深い学び」を語れるのだろうか。
もし本気で主体性を育てたいなら、まず研修そのものの環境を変えるべきではないのか。
「誰一人取り残さない」と言いながら、実際には“這い上がれる人間だけが残る構造”になっていないか。
「相談してください」と言いながら、相談した人が評価を下げられる空気になっていないか。
「安心して挑戦していい」と言いながら、失敗した人を陰で評価していないか。
言葉は優しい。でも、構造は冷たい。そこに、口茸は潜んでいる。
さらに厳しいことを言えば、人権教育担当なのに、現場時代には怒鳴る、追い込む、圧をかける。そんな指導をしていた人もいる。
もちろん、過去を全否定したいわけではない。人は変わるし、考え方もアップデートされる。
でも、本当に大切なのは、「何を語るか」ではなく、“どう在るか”なのではないだろうか。
ここを大人は忘れてはいけない。
子どもたちは、大人の言葉以上に、空気を見ている。
先生が、「対話が大事」と言いながら、職員室で対話していない。「主体性が大事」と言いながら、全部指示している。「心理的安全性」と言いながら、ミスした人を笑っている。
それを、子どもたちは全部見ている。
つまり、教育とは、“言葉”ではなく、“構造”なのである。
なぜ、理念は広がっているのに、現場は変わらないのか。
それは、言葉だけをアップデートして、構造を変えていないからだと思う。
黒板の前で、大人がずっと喋る。聞く側は並ぶ。答えは上から降りてくる。
この構造が変わらない限り、主体性は育ちにくい。
しかし不思議なことに、教育界は「言葉」はどんどん新しくなる。でも、環境は昔のまま。
だから、口茸が生まれる。
もちろん、完璧な人間なんていない。自分自身もそうだ。言っていることと、できていないことはたくさんある。
でも、だからこそ大事なのは、「一致しようとする姿勢」なのではないか。
主体性を語るなら、まず自分たちが主体的に動く。対話を語るなら、まず自分たちが対話する。安心感を語るなら、まず大人同士が安心して話せる。
そこが伴って初めて、理念は力を持つ。
このシリーズで言いたいことは、「知識を与えるな」ということではない。
もっと大切なのは、“どういう環境で、その言葉が語られているか”である。
どれだけ立派な理念も、構造が真逆なら、子どもたちは見抜く。
だからまず、大人側が変わる。語る前に、環境を変える。そして、「言っていること」と「やっていること」が一致する。
そこからしか、本当の教育は始まらないのではないか。
そう感じている。

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