【第9回】 「主体性」は、教えるものではなく“立ち上がるもの” 〜方法ではなく、状態と環境から考え直す〜

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「主体性を育てたい」

学校現場では、本当によく聞く言葉である。

そして、その言葉が出た瞬間から、
私たちはすぐにこう考え始める。
• どんな活動を入れればいいか
• どんな発問をすればいいか
• どんな授業展開なら主体的になるか
• どんな手法なら子どもが動くか

でも、ここで一度、立ち止まって考えてみたい。

本当に「主体性」は、
教師が“教えてつけるもの”なのだろうか。

あるいは、主体性とは、ある条件が整った時に、子どもの内側から“立ち上がってくるもの”

なのではないだろうか。

私は、だんだん後者だと思うようになってきた。

そもそも「主体性」は、命令で生まれるものではない

少し考えてみれば、これはかなり当たり前のことかもしれない。

「主体的になりなさい」

そう言われて、主体的になれるだろうか。

「自分で考えなさい」

そう言われた瞬間に、本当に自分で考えられるだろうか。

「もっと自分から動いて」

そう言われて、内側からエネルギーが湧いてくるだろうか。

もちろん、一時的には動くかもしれない。

でもそれは多くの場合、“主体性”ではなく、“従順さ”や“適応”であることが多い。

つまり、
• 言われたからやる
• 怒られたくないからやる
• 評価されたいからやる
• 期待に応えたいからやる

という動きである。

それはそれで人間として自然な面もある。
でも、それをそのまま「主体性」と呼んでしまうと、かなり危うい。

なぜならそれは、

“自分の内側から立ち上がっている”とは限らない

からである。

主体性は、「スイッチを押す」ものではない

学校ではよく、「どうしたら主体的にさせられるか」という言い方がされる。

でも、この言い方の中には、すでに少し危うさがある。

なぜならそこには、

主体性を、教師が外から“操作できるもの”として見ている視点

が入っているからである。

もちろん、教師の働きかけは大事だ。

発問も大事。
教材も大事。
流れも大事。
言葉かけも大事。

でも、それらは本来、主体性を“起こす技術”というより、主体性が“立ち上がりやすくなる条件”を整える営みなのではないかと思う。

この違いは、かなり大きい。

花を「咲かせる」のではなく、咲きやすい土をつくる

私はこのことを考える時、よく植物のことを思う。

花を咲かせたい時、人は花びらを無理やり開こうとはしない。

そんなことをしたら、むしろ壊れてしまう。

そうではなくて、
• 日当たり
• 水
• 土
• 温度
• 風通し

そうした条件を整える。

すると、ある時、花は咲く。

つまり、咲かせるのではなく、咲きやすい条件を整えるのである。

私は、主体性もかなりこれに近いと思っている。

子どもを外から「主体的にする」のではなく、子どもが主体的になりやすい状態と環境を整えること。

ここに、教育の本質があるのではないかと思う。

では、主体性が立ち上がる条件とは何か

ここが、かなり大事である。

主体性が立ち上がるためには、
何が必要なのだろうか。

私は少なくとも、次のような条件がいると思っている。

① 安心していていいこと
まず大前提として、安心していない場所で、人は主体的にはなりにくい。

これは、子どもも大人も同じだと思う。
• 間違えたら笑われる
• 変なことを言ったら浮く
• 何か言えば評価される
• 失敗したら責められる

そんな空気の中で、人は本当の意味では前に出にくい。

むしろ、身を守ることが先になる。

つまり、主体性の前に、安心がいるのである。

② つながれていること
人は、一人ぼっちだと動きにくい。

逆に、
• 誰かが見てくれている
• 仲間がいる
• 相談できる
• ちょっと聞ける
• 困ったら助けてもらえる

そう思えるだけで、かなり動きやすくなる。

ここで大事なのは、

主体性は、“一人で全部やること”ではない

ということだ。

よく、「主体的」と聞くと、
• 自分で全部考える
• 自分一人で進める
• 誰にも頼らない

みたいなイメージを持つことがある。

でも本当は逆で、人とつながれているからこそ、自分で動ける

という面がある。

ここを見落とすと、主体性を「孤独な自立」と勘違いしてしまう。

でも、実際にはそうではない。

③ 自分の考えが“意味を持つ”こと
もう一つ大きいのは、「自分が考えることに意味がある」と感じられることである。

どれだけ「考えてごらん」と言われても、
• どうせ答えは先生が持っている
• 結局、正解を当てるだけ
• 自分の考えは採用されない
• 早く先生の言う通りにした方が早い

と思っていたら、人は本気では考えない。

当たり前である。

だからこそ、自分の考えが、学びの中でちゃんと意味を持つ構造が必要になる。

ここがないと、「考えなさい」は、ただの形式になる。

④ 少し試しても大丈夫なこと

主体性には、小さな試行錯誤が欠かせない。
• とりあえず言ってみる
• ちょっとやってみる
• こうかな?と試す
• 間違えながら進む

こういうことが許されていないと、主体性はかなり立ち上がりにくい。

なぜなら主体性とは、最初から正しく動くことではなく、自分で動きながら調整していくこと

だからである。

つまり、主体性を育てたいなら、
「ミスしないこと」よりも、

「試していいこと」

の方が、よほど大事なのかもしれない。

ここまでくると見えてくる

主体性は「方法」ではなく「状態」である

ここまで整理すると、かなりはっきりしてくる。

主体性は、
• 手を挙げること
• たくさん発言すること
• グループ活動をすること
• 活動量が多いこと

ではない。

もちろん、そうした姿の中に主体性が表れることはある。

でも本質はそこではない。

本質は、

子どもが、自分の内側から
「考えてみよう」
「やってみよう」
「話してみよう」
「確かめてみよう」
と思える状態にあるかどうか

である。

つまり、主体性とは、“方法”ではなく“状態”であるということだ。

ここを取り違えると、学校はすぐに、
• 主体的に見える活動
• 主体的っぽい授業
• 主体的に見える振る舞い

を量産し始める。

でもそれでは、本物にはなりにくい。

だから、座席配置の話が本質になる

ここで、また座席配置の話に戻る。

なぜ私が何度もコの字型やグループアイランド型の話をするのか。

それは、座席配置が「方法」ではなく、子どもの状態を左右する“環境”だからである。

たとえば、前向き一斉の教室では、どうしても次のような空気が強くなりやすい。
• 教師が中心
• 正解は前から来る
• 基本は黙って聞く
• 発言は選ばれた人がする
• 隣とつながるのは例外

もちろん、その中でも主体性は育つ。
力量のある教師なら、育てられる。

でも、かなり難しい。

それに対して、
• 顔が見える
• 反応が見える
• すぐ相談できる
• 小さなつぶやきが生まれる
• 「一人じゃない」と感じられる

そういう配置では、主体性が立ち上がるための条件が、かなり自然に整いやすい。

つまり、

座席配置を変えることは、主体性の“見た目”を変えることではなく、主体性が立ち上がる“土”を変えること

なのである。

ここが、ものすごく大きい。

教師の役割は、「火をつける人」より「火がつきやすい場をつくる人」へ

これまで学校では、教師はよく
「子どもに火をつける人」
として語られてきた。

もちろん、それも大事である。

でもこれからは、もう一つの役割がもっと大事になる気がしている。

それは、「火がつきやすい場をつくる人」である。

つまり、
• どんな空気をつくるか
• どんな関係性を育てるか
• どんな配置にするか
• どんな安心感を置くか
• どんなつながりを日常化するか

そういうことを整える人である。

この役割に立てたとき、教師の仕事は「コントロール」から少し離れて、“育ちが起こりやすい場づくり”へと変わっていく。

私は、そこにかなり希望を感じている。

最後に

主体性は、教え込むものではないのかもしれない。

無理やり引き出すものでもないのかもしれない。

そうではなくて、ある条件が整った時に、子どもの内側から、少しずつ立ち上がってくるものなのではないだろうか。

だからこそ、私たちが本当に考えたいのは、
• どう教えるか
• どう動かすか
• どうやらせるか

だけではない。

その前にある、

どんな状態をつくるか
どんな環境を置くか
どんな安心感を日常に埋め込むか

なのだと思う。

主体性は、方法で“演出”するものではなく、状態と環境の中から、立ち上がるもの

その前提に立った時、教室づくりはきっと、もう少しやさしく、もう少し本質的になるのではないかと思う。

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