「主体性を育てたい」
学校現場では、本当によく聞く言葉である。
そして、その言葉が出た瞬間から、
私たちはすぐにこう考え始める。
• どんな活動を入れればいいか
• どんな発問をすればいいか
• どんな授業展開なら主体的になるか
• どんな手法なら子どもが動くか
でも、ここで一度、立ち止まって考えてみたい。
本当に「主体性」は、
教師が“教えてつけるもの”なのだろうか。
あるいは、主体性とは、ある条件が整った時に、子どもの内側から“立ち上がってくるもの”
なのではないだろうか。
私は、だんだん後者だと思うようになってきた。
そもそも「主体性」は、命令で生まれるものではない
少し考えてみれば、これはかなり当たり前のことかもしれない。
「主体的になりなさい」
そう言われて、主体的になれるだろうか。
「自分で考えなさい」
そう言われた瞬間に、本当に自分で考えられるだろうか。
「もっと自分から動いて」
そう言われて、内側からエネルギーが湧いてくるだろうか。
もちろん、一時的には動くかもしれない。
でもそれは多くの場合、“主体性”ではなく、“従順さ”や“適応”であることが多い。
つまり、
• 言われたからやる
• 怒られたくないからやる
• 評価されたいからやる
• 期待に応えたいからやる
という動きである。
それはそれで人間として自然な面もある。
でも、それをそのまま「主体性」と呼んでしまうと、かなり危うい。
なぜならそれは、
“自分の内側から立ち上がっている”とは限らない
からである。
主体性は、「スイッチを押す」ものではない
学校ではよく、「どうしたら主体的にさせられるか」という言い方がされる。
でも、この言い方の中には、すでに少し危うさがある。
なぜならそこには、
主体性を、教師が外から“操作できるもの”として見ている視点
が入っているからである。
もちろん、教師の働きかけは大事だ。
発問も大事。
教材も大事。
流れも大事。
言葉かけも大事。
でも、それらは本来、主体性を“起こす技術”というより、主体性が“立ち上がりやすくなる条件”を整える営みなのではないかと思う。
この違いは、かなり大きい。
花を「咲かせる」のではなく、咲きやすい土をつくる
私はこのことを考える時、よく植物のことを思う。
花を咲かせたい時、人は花びらを無理やり開こうとはしない。
そんなことをしたら、むしろ壊れてしまう。
そうではなくて、
• 日当たり
• 水
• 土
• 温度
• 風通し
そうした条件を整える。
すると、ある時、花は咲く。
つまり、咲かせるのではなく、咲きやすい条件を整えるのである。
私は、主体性もかなりこれに近いと思っている。
子どもを外から「主体的にする」のではなく、子どもが主体的になりやすい状態と環境を整えること。
ここに、教育の本質があるのではないかと思う。
では、主体性が立ち上がる条件とは何か
ここが、かなり大事である。
主体性が立ち上がるためには、
何が必要なのだろうか。
私は少なくとも、次のような条件がいると思っている。
① 安心していていいこと
まず大前提として、安心していない場所で、人は主体的にはなりにくい。
これは、子どもも大人も同じだと思う。
• 間違えたら笑われる
• 変なことを言ったら浮く
• 何か言えば評価される
• 失敗したら責められる
そんな空気の中で、人は本当の意味では前に出にくい。
むしろ、身を守ることが先になる。
つまり、主体性の前に、安心がいるのである。
② つながれていること
人は、一人ぼっちだと動きにくい。
逆に、
• 誰かが見てくれている
• 仲間がいる
• 相談できる
• ちょっと聞ける
• 困ったら助けてもらえる
そう思えるだけで、かなり動きやすくなる。
ここで大事なのは、
主体性は、“一人で全部やること”ではない
ということだ。
よく、「主体的」と聞くと、
• 自分で全部考える
• 自分一人で進める
• 誰にも頼らない
みたいなイメージを持つことがある。
でも本当は逆で、人とつながれているからこそ、自分で動ける
という面がある。
ここを見落とすと、主体性を「孤独な自立」と勘違いしてしまう。
でも、実際にはそうではない。
③ 自分の考えが“意味を持つ”こと
もう一つ大きいのは、「自分が考えることに意味がある」と感じられることである。
どれだけ「考えてごらん」と言われても、
• どうせ答えは先生が持っている
• 結局、正解を当てるだけ
• 自分の考えは採用されない
• 早く先生の言う通りにした方が早い
と思っていたら、人は本気では考えない。
当たり前である。
だからこそ、自分の考えが、学びの中でちゃんと意味を持つ構造が必要になる。
ここがないと、「考えなさい」は、ただの形式になる。
④ 少し試しても大丈夫なこと
主体性には、小さな試行錯誤が欠かせない。
• とりあえず言ってみる
• ちょっとやってみる
• こうかな?と試す
• 間違えながら進む
こういうことが許されていないと、主体性はかなり立ち上がりにくい。
なぜなら主体性とは、最初から正しく動くことではなく、自分で動きながら調整していくこと
だからである。
つまり、主体性を育てたいなら、
「ミスしないこと」よりも、
「試していいこと」
の方が、よほど大事なのかもしれない。
ここまでくると見えてくる
主体性は「方法」ではなく「状態」である
ここまで整理すると、かなりはっきりしてくる。
主体性は、
• 手を挙げること
• たくさん発言すること
• グループ活動をすること
• 活動量が多いこと
ではない。
もちろん、そうした姿の中に主体性が表れることはある。
でも本質はそこではない。
本質は、
子どもが、自分の内側から
「考えてみよう」
「やってみよう」
「話してみよう」
「確かめてみよう」
と思える状態にあるかどうか
である。
つまり、主体性とは、“方法”ではなく“状態”であるということだ。
ここを取り違えると、学校はすぐに、
• 主体的に見える活動
• 主体的っぽい授業
• 主体的に見える振る舞い
を量産し始める。
でもそれでは、本物にはなりにくい。
だから、座席配置の話が本質になる
ここで、また座席配置の話に戻る。
なぜ私が何度もコの字型やグループアイランド型の話をするのか。
それは、座席配置が「方法」ではなく、子どもの状態を左右する“環境”だからである。
たとえば、前向き一斉の教室では、どうしても次のような空気が強くなりやすい。
• 教師が中心
• 正解は前から来る
• 基本は黙って聞く
• 発言は選ばれた人がする
• 隣とつながるのは例外
もちろん、その中でも主体性は育つ。
力量のある教師なら、育てられる。
でも、かなり難しい。
それに対して、
• 顔が見える
• 反応が見える
• すぐ相談できる
• 小さなつぶやきが生まれる
• 「一人じゃない」と感じられる
そういう配置では、主体性が立ち上がるための条件が、かなり自然に整いやすい。
つまり、
座席配置を変えることは、主体性の“見た目”を変えることではなく、主体性が立ち上がる“土”を変えること
なのである。
ここが、ものすごく大きい。
教師の役割は、「火をつける人」より「火がつきやすい場をつくる人」へ
これまで学校では、教師はよく
「子どもに火をつける人」
として語られてきた。
もちろん、それも大事である。
でもこれからは、もう一つの役割がもっと大事になる気がしている。
それは、「火がつきやすい場をつくる人」である。
つまり、
• どんな空気をつくるか
• どんな関係性を育てるか
• どんな配置にするか
• どんな安心感を置くか
• どんなつながりを日常化するか
そういうことを整える人である。
この役割に立てたとき、教師の仕事は「コントロール」から少し離れて、“育ちが起こりやすい場づくり”へと変わっていく。
私は、そこにかなり希望を感じている。
最後に
主体性は、教え込むものではないのかもしれない。
無理やり引き出すものでもないのかもしれない。
そうではなくて、ある条件が整った時に、子どもの内側から、少しずつ立ち上がってくるものなのではないだろうか。
だからこそ、私たちが本当に考えたいのは、
• どう教えるか
• どう動かすか
• どうやらせるか
だけではない。
その前にある、
どんな状態をつくるか
どんな環境を置くか
どんな安心感を日常に埋め込むか
なのだと思う。
主体性は、方法で“演出”するものではなく、状態と環境の中から、立ち上がるもの
その前提に立った時、教室づくりはきっと、もう少しやさしく、もう少し本質的になるのではないかと思う。

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