【第1回】 主体的って、結局どういうこと? 〜「自主的」との違いを、ちゃんと分けて考えたい〜

4月になると、学校の中にはきれいな言葉が並びます。

「主体的・対話的で深い学び」
「自ら学ぶ子」
「主体性の育成」

でも、正直に言うと、この言葉たちって、分かったようで、実は分かっていないまま使われていることが多い気がしています。

そしてその“分からなさ”が、授業や学級づくりを、どこかズレた方向へ連れていってしまうことがあります。

今日はまず、そこを整理したいと思います。

「自主的」と「主体的」は、同じではない

似ているようで、実はこの二つは違います。

自主的とは、言われなくても自分からやることです。

たとえば、
• 言われる前に掃除を始める
• 宿題を忘れずにやる
• 決められた係の仕事を進んでやる

こういう姿です。

これはもちろん、とても大事です。
でも、ここで一度立ち止まって考えたい。

その子は本当に、「自分で考えて動いている」のでしょうか。

もしかすると、「何をするか」はすでに誰かが決めていて、そのレールの上を自分から進んでいるだけかもしれません。

つまり、自主的とは、
“決められたこと”を、自分からやる力
とも言えます。

一方で、主体的とは何か。

主体的とは、何のためにやるのかを自分で考え、どう進めるかを自分で選びながら学んでいくことです。

つまり、主体的な子は、
• 言われたからやるのではなく
• やる意味を自分で持ち
• 必要ならやり方も変え
• 自分の学びを自分で調整していく

そんな状態にあります。

ここには大きな違いがあります。

言われなくても動く子=主体的、ではない

学校では、よくこんな子が「主体的」と言われます。
• 先生の話をよく聞く
• すぐ動ける
• 先回りして行動する
• 指示がなくてもやるべきことをやる

もちろん素晴らしいことです。

でも、それは本当に
「主体的」でしょうか。

もしかするとそれは、“学校という仕組みにとてもよく適応している姿”なのかもしれません。

ここを見誤ると、学校は「よく動く子」は育てられても、「自分で問いを持ち、自分で考え、自分で学びを進める子」を育てにくくなります。

つまり私たちが本当に育てたいのは、指示待ちでない子ではなく、意味を持って動ける子
のはずです。

「主体的」は、授業の形ではない

ここで、さらに大事なことがあります。

主体的という言葉を聞くと、私たちはすぐに授業の“形”を思い浮かべます。
• グループ活動
• ペアトーク
• 発表
• 話し合い
• 学び合い

でも、本当はここが一番危ないところです。

なぜなら、主体的とは「授業の形」ではなく、「子どもの学びの状態」だからです。

つまり、
• 手がたくさん挙がっている
• よくしゃべっている
• グループで盛り上がっている

これだけでは、主体的とは言えません。

逆に、
• 一人でじっくり考えている
• 資料を読みながら、自分なりに意味づけしている
• 仲間の考えを聞いて、自分の考えを修正している
• 分からなさの中で粘っている

こういう姿の中にこそ、本当の主体性が宿っていることがあります。

つまり、主体的かどうかは、「何をしているか」より、「どんな状態で学んでいるか」で決まるのです。

問いたいのは、「何をさせるか」ではなく「どんな状態をつくるか」

ここまで来ると、見えてくるものがあります。

もし主体的な学びをつくりたいなら、私たちが考えるべきなのは、どんな活動を入れるかというよりも、子どもがどんな状態になっているかなのではないか、ということです。

ここを間違えると、学校はどんどん「方法探し」に向かいます。
• どんな発問がいいか
• どんな交流活動がいいか
• どんなワークシートがいいか
• どんな授業技術がいいか

もちろん、どれも大切です。

でもその前に、もっと大きな問いがあるはずです。

その子たちは、そもそも「主体的になりやすい環境」にいるのか?

ここです。

主体的が「状態」だとしたら、その状態を生み出すのは何なのか。

教師の技術だけでしょうか。
教材だけでしょうか。
発問だけでしょうか。

もちろんそれもあります。

でも、もしかするとその前に、もっと見落としてはいけないものがあるのかもしれません。

それが、子どもたちが毎日置かれている“環境”です。

次回はここを掘り下げます。

なぜ、「主体的になってほしい」と願いながら、私たちはその逆の環境を当たり前にしてしまっているのか。

そこを考えてみたいと思います。

次回予告

「必要な時だけ」では、なぜ変わらないのか

〜子どもを育てるのは、“特別な授業”ではなく“毎日の普通”である〜

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