比較が幸せを壊していく〜競争社会の中で学校が守るもの〜

「〇〇さんはできるのに。」

「お兄ちゃんはできたのに。」

「去年の先輩たちはもっとできていた。」

私たちは気付かないうちに、誰かと誰かを比べてしまうことがある。そして、比べられる側もまた、いつの間にか誰かと自分を比べながら生きている。

テストの点数、運動能力、容姿、友達の数、SNSのフォロワー数。現代は、比較しようと思わなくても比較が目に入ってくる時代である。しかし、その比較は本当に人を幸せにするのだろうか。

樺沢紫苑さんは、幸福には三つの種類があると言う。セロトニン的幸福、オキシトシン的幸福、ドーパミン的幸福である。

このシリーズでも見てきたように、まず健康や安心があり、次につながりがあり、その上に挑戦や成長がある。ところが現代社会は、どうしても最後のドーパミン的幸福ばかりに目が向きやすい。

もっと成績を上げたい。もっと試合に出たい。もっと評価されたい。もっと認められたい。

もちろん、それ自体は悪いことではない。向上心は人を成長させる。しかし、その気持ちが「誰かより上に立ちたい」という比較だけに支配されてしまうと、人は少しずつ幸せから遠ざかっていく。

なぜなら、比較には終わりがないからである。

テストで90点を取れば95点を目指す。95点を取れば100点を目指す。学年で1番になっても、今度はもっと上を見始める。そこには成長もあるが、同時に「まだ足りない」という感覚も生まれる。

すると、本当は頑張っているのに満たされない。本当は成長しているのに喜べない。そんな状態に陥ってしまうのである。

私は教育の中で、「比較」は必要最小限でよいと思っている。

競争そのものを否定するつもりはない。スポーツにも競争はあるし、受験にも競争はある。競争によって力が伸びる場面も確かに存在する。

しかし、本当に大切なのは、他人との比較ではなく、自分自身の成長ではないだろうか。

昨日できなかったことが今日できた。前は言えなかったことが言えるようになった。半年前よりも友達の気持ちを考えられるようになった。

そうした変化こそ、本来私たちが喜ぶべき成長である。

私はサッカーの指導でも同じことを感じる。

伸びる選手は、自分の成長に目を向けている。昨日よりもボールが止まった。前よりも周りが見えるようになった。最後まで走り切れた。

一方で、周りばかり見ている選手は苦しくなりやすい。

あの子は試合に出ている。

あの子は評価されている。

あの子はうまい。

そう考え始めると、自分の成長が見えなくなってしまうのである。

学校も同じではないだろうか。

近年、「一人一人に応じた指導」が重視されるようになり、その方法の一つとして習熟度別学習が取り入れられることがある。子どもの実態に応じて学び方を工夫すること自体は大切な考え方である。

しかし私は、その運用には慎重でありたいと思っている。

なぜなら、子どもたちは大人が思う以上に敏感だからである。

「あのクラスはできる子たち。」

「あっちはできない子たち。」

たとえ教師にそんな意図がなくても、子どもたちは序列として受け取ることがある。

すると、本来は学びやすくするための仕組みが、知らず知らずのうちに比較の仕組みへと変わってしまう。

自分はできる側なのか。

できない側なのか。

その視点で自分を見るようになった瞬間、学びの楽しさよりも、自分の位置が気になり始める。

そして、「どうせ自分はできないグループだから」という諦めや、「自分はできる側だから失敗できない」という不安が生まれることもある。

私は、学校が守るべきものは、学力だけではないと思っている。

それは、「自分は成長できる」という感覚である。

今できるかどうかではなく、これから伸びることができるという感覚。

その感覚が失われたとき、人は挑戦しなくなる。

だからこそ学校は、子どもを固定的な見方で捉えるのではなく、「まだ途中なんだよ」というメッセージを送り続ける場所でありたい。

結果による分断よりも、互いに学び合う環境。

選別よりも成長。

序列よりも協働。

そうした学校の方が、子どもたちは幸せになれるのではないだろうか。

そして実は、比較が強くなりすぎると、オキシトシン的幸福も失われていく。

本来なら仲間であるはずの人がライバルになる。本来なら応援できるはずの人を妬むようになる。本来なら助け合えるはずなのに、自分だけが良ければいいと考えてしまう。

だから学校には、競争だけでなく協力が必要なのである。

友達の成功を一緒に喜べること。仲間の頑張りを認められること。困っている人に自然と手を差し伸べられること。そうした経験が、人とのつながりを深め、学校を温かい場所にしていく。

私は、「応援される人になるために学校がある」という言葉を大切にしている。そして同じように、「人を応援できる人になるために学校がある」とも思っている。

誰かの成功を妬むのではなく、一緒に喜べる人。誰かの失敗を笑うのではなく、励ませる人。そんな人の周りには自然と人が集まる。

「毎日がスペシャル」

私はこの言葉が好きである。

人生は競争だけでできているわけではない。誰かに勝った日だけが価値のある日でもない。

何気ない毎日の中で、自分なりに成長し、誰かとつながり、誰かを応援できること。その積み重ねこそが、本当の幸せなのではないだろうか。

学校は、一番になる人を育てる場所ではない。

自分の成長を喜び、人の成長も喜べる人を育てる場所である。そして、人と比べるのではなく、自分の可能性を信じながら歩んでいける人を育てる場所なのである。

この追記は、単純な「習熟度別学習反対論」ではなく、

「比較が強まることで、セロトニン(安心)とオキシトシン(つながり)が損なわれる危険性」

という幸福論の流れから論じています。

また、

  • 固定的な能力観ではなく成長観
  • 序列より協働
  • 選別より成長
  • 応援し合う文化

という視点は、今後の第8回「先生も幸せになっていい」、第9回「親も不安の中で子育てしている」、第10回「学校は幸せを練習する場所」にも自然につながります。

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