
「主体的・対話的で深い学び」を実現するために、私たちは何を変えればよいのだろう。
授業方法か。 発問か。 教材か。 教師の声掛けか。
もちろん、それらは大切だ。
しかし、もう一つ、見落としがちなものがある。
「教室のデフォルト」だ。
デフォルトとは、特別な指示をしなくても、自然とそうなっている状態のこと。
例えば、教室に入ったとき、全員の机が黒板を向いている。
教師が「前を向きなさい」と言わなくても、子どもは自然と前を向く。
教師が話せば教師を見、問いに対しても教師に向かって答える。
これは、教師が毎時間命令しているわけではない。
環境そのものが、子どもの行動のデフォルトをつくっているのだ。
逆に、教師が「さあ、友達と対話しましょう」と言ったとき、全員が前を向いていたらどうだろう。
もちろん対話はできる。
しかし、身体を隣に向ける必要がある。相手の顔を見る必要がある。声を届ける必要がある。
つまり、デフォルトが「前向き」である以上、「関わる」ことが、わざわざ起こさなければならない「特別な活動」になってしまうのだ。
ここに、座席配置の持つ意味がある。
教室を「味噌」に例えてみる
私は、教室という場所を「味噌づくり」に例えて考えてみたい。
味噌を仕込むとき、大豆を用意しただけでは味噌にはならない。麹や塩を加え、適切な条件の中で、時間をかけて変化していく。
教室も、どこか似ているのではないだろうか。
大豆が一粒ずつ離れて置かれている教室。
大豆同士が関わり合える状態になるよう、最初から仕込まれている教室。
配置だけで全てが決まるわけではない。
それでも、「関わりが起こりやすい状態を最初からつくっておく」という発想は、環境づくりとして直感的に腑に落ちるはずだ。
誤解してほしくないのは、コの字型やグループ型が常に正解だというわけではないということだ。
教師の説明を聞いたり、個人で黙々と課題に取り組んだりするには、前向き一斉型が有効な場面もある。
問題なのは、それが何も考えずに選ばれる「デフォルト」になっていることではないだろうか。
「この時間、この集団で、どんな行動をデフォルトにしたいのか」
教師が問うべきなのは、「子どもに何をさせるか」だけではない。
「何もしなくても、どんな行動が起こる教室にしておくか」である。
その上で、座席を変え、教材を変え、教師の立ち位置を変える。そうして教室に新しい「普通」を仕込んでいく。
教室の「醸成」という文化
教室の「醸成」を生み出すものは、座席配置だけではない。
目線は、人と人をつなぐ最初の接点になる。
会話は、互いの考えを行き来させる。
対話は、その考えを揺さぶり、変化させる。
表情や笑顔は、「ここにいていい」という安心を生み出す。
教科書は、子どもと子どもをつなぐ学びの媒介になる。
教師の声掛けは、関わりが生まれるように環境を整える。
仲間の声掛けは、子ども同士の変化を促す。
そして、それらが毎日の教室で繰り返される。
つまり、座席配置は「仕込み」であり、目線や会話、対話、笑顔、教材、声掛けは、その仕込みの中で起こる「小さな相互作用」なのだ。
一つ一つは小さい。
しかし、それが積み重なることで、やがて「このクラスでは、困ったら声を掛ける」「友達の考えを聞く」「自分と違う考えを面白がる」という行動が、その教室の「文化」になっていく。
これが、教室を「醸す」ということではないだろうか。
教師が仕込むべきもの
教師は、子どもを直接「発酵させる」人ではない。
「主体的になりなさい」 「対話しなさい」
そう命令して子どもを動かし続けるだけでもない。
教師ができることは、子ども同士が関わり、互いに刺激を受け、考えを変えたり深めたりできる環境を仕込むこと。
その環境を整えることによって、ある行動を起こしやすくし、別の行動を起こしにくくする。
意識しているかどうかにかかわらず、教師は環境を通して子どもの行動のデフォルトを設計している。
だからこそ、問いたい。
私たちは、教室の何をデフォルトにしているだろうか。
教師を見ることか。 指示を待ことか。 それとも、仲間を見ることか。 自分から声を掛けることか。
明日の朝、教室のドアを開けたとき、その答えを一度だけ見渡してみてほしい。
変えるのは、必ずしも大きなことではない。
机を少し動かす。 教師の立つ場所を変える。 教科書を開く前に隣の友達と一言交わす。 一人の子どもの表情に目を向ける。
そんな小さな「仕込み」が、毎日の教室に積み重なっていく。
「子どもを変える」のではなく、「子どもが変わり合えるデフォルトを仕込む」。
教室を「醸す」。
そのために、まず変えるべきなのは、子どもではなく、私たち教師が当たり前だと思っている「デフォルト」なのかもしれない。
あなたの教室では、今、何がデフォルトになっているだろうか。

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