失敗したときの向き合い方:学校は、やり直すための練習場所である

なぜ、私たちは失敗したときに、すぐ素直になれないのでしょうか。 頭では分かっているのに、つい隠してしまう。 そんな経験、ありませんか。

あれは、小学6年生のころのことです。 卒業文集に載せる、担任の先生へのメッセージページが配られました。 ページの真ん中には、先生の顔の絵が描かれていました。

正直に言うと、当時の私は、その先生が少しこわかった。 今思えば、厳しくて真剣だっただけなのですが、子どもの私はそう感じていました。 そのとき、ほんの出来心で、先生の顔に小さな落書きをしてしまったのです。 流行っていたアニメの、怒ったときにつくマークを、そっと。

すぐに後悔しました。 そして、その落書きは、すぐに見つかりました。

「だれだ、こんなことをしたのは。出てきなさい」

教室が、しんと静まり返ったのを、今でも覚えています。

正直に言ったほうがいい。 そう分かっていたのに、前に出た私は、思わず嘘をついてしまいました。

「ぼくじゃありません」

あの瞬間の、胸の重さ。 それからというもの、学校に行くのがつらくなりました。 大好きだった学校なのに、朝になると足が重くなる。 おなかが痛い。 今日は行きたくない。 そんな言い訳を考えては、家の人に伝えていました。

自分が悪いのは分かっている。 でも、もう一度正直に言う勇気が出ない。 だから私は、別の形でつぐないをしようとしました。

落書きをされた友だちが困っていたら助ける。 先生の授業では手を挙げられなくなったけれど、ノートに一生懸命感想を書く。 日記もたくさん書く。 漢字もたくさん練習する。

これを続ければ、いつか許してもらえるかもしれない。 そんな思いでした。

けれど、心はずっと苦しいままでした。

冬休み、少年サッカーの合宿で、同じクラスの友だちと同じ部屋になりました。 その夜、友だちがぽつりと言いました。

「先生、すごく怒ってたよね。 でも、落書きされた子も、ショックそうだったな」

その言葉を聞いたとき、胸がぎゅっと締めつけられました。 そして、もう黙っていられなくなったのです。

「……実は、あれ、ぼくなんだ」

そう打ち明けると、友だちはこう言ってくれました。

「先生に言ったほうがいいよ。 きっと、話を聞いてくれるよ」

その瞬間、心がすっと軽くなりました。 誰にも話せず、抱え込んでいた重さが、ようやく下りた気がしました。

冬休みが終わり、私は思い切って先生に話しました。

すると先生は、静かに言いました。

「わかってたよ。 よく話してくれたね。 待っててよかった」

涙が止まりませんでした。 こわかった気持ちが、ほっとした安心感に変わった瞬間でした。

この話の主人公は、私です。 小学6年生のときの、本当にあった出来事です。

だれにでも、あやまちはあります。 大人にも、子どもにも。

大切なのは、そのあと、どうするか。

人は、失敗したときに孤独になると、逃げたくなります。 隠したくなります。 それは単なる個人の弱さというよりも、安心して失敗を告白できる温かい環境が、そこに足りていなかったからかもしれません。

主体性は、最初からそこにあるものではありません。 失敗し、葛藤し、誰かに背中を押してもらいながら、自分の足で向き直るプロセスの中で育つものです。 環境は、人を一方的に変えるためにあるのではなく、人が本来の自分を取り戻すために創るものです。

この構造は、学校の教室だけに限りません。 家庭の子育てでも、職場のチームづくりでも同じです。

部下のミスや子どもの失敗に対して、私たちはすぐに犯人探しをしていないでしょうか。 あるいは、失敗した本人が一人で抱え込んでいないでしょうか。

失敗を過度に責めるのではなく、失敗したあとのリカバリーを共に支える。 その温かい関係性こそが、組織を強くし、人を大きく成長させます。

学校は、失敗しない場所ではありません。 失敗したあとに、もう一度立ち直る練習をする場所なのだと、今は心からそう思っています。

あなたの周りには、失敗しても安心して戻ってこられる場所がありますか。 今日、誰かの小さな一歩を、あたたかく受け止めてみませんか。

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