少し挑戦的なことを言わせてほしい。これまで社会科の授業づくりは、「より良い資料を集めること」「より面白い教材を見つけること」「より詳しい知識を身に付けること」が重視されてきた。実際、それによって多くの素晴らしい授業が生まれてきたし、その努力や情熱には敬意しかない。
しかし、時代は大きく変わった。
昔は教師が知識や資料の供給源だった。珍しい写真を持っている先生、貴重な史料を知っている先生、興味深いエピソードを語れる先生が子どもたちを惹きつけた。ところが今、子どもたちの机の上にはタブレットがある。教師が何十年もかけて集めた資料の多くは、数秒で検索できるようになった。情報量では勝てない。検索速度でも勝てない。資料の豊富さでも勝てない。厳しい言い方をすれば、これまで名人と呼ばれてきた先生方の強みの多くは、すでにタブレットの中に入ってしまったのである。
だからこそ、これからの社会科教師に問われるのは、どんな資料を持っているかではない。どんな学びを生み出せるかである。どんな問いを立てるのか。子ども同士をどうつなげるのか。どうすれば互いの考えを聞き合い、自分の考えを更新していけるのか。そこに教師の価値がある。
私はよく、授業づくりを丸亀製麺に例える。多くの社会科教師は、うどんの味ばかり研究している。もっと美味しいうどんを、もっと珍しいうどんを、と追い求めている。しかし丸亀製麺が成功した理由は、うどんだけではない。注文の仕方、商品の並び方、席の配置、人の流れ、返却の仕組みまで含めたシステム全体が優れているからである。お客さんは自然に動き、自然に満足して帰っていく。
教室も同じではないだろうか。どれほど素晴らしい教材を持ち込んでも、子どもが受け身で聞いているだけなら学びは広がらない。一方で、教科書と資料集だけでも、子ども同士が自然に相談し、分からないことを聞き合い、自分の考えを説明し合う環境があれば、そこには深い学びが生まれる。資質・能力は教材から育つのではなく、その教材を使って学び合う環境の中で育つのである。
「社会からの脱却」とは、教材研究をやめることではない。しかし、教材研究だけに価値を置く時代から脱却することだと思う。これから必要なのは、教材研究の名人ではなく、学習環境を設計する名人である。座席配置を考える人。対話が生まれる仕組みを考える人。誰一人取り残されない学びの文化をつくる人。そうした教師こそが、これからの時代に求められる。
達人の技を磨く時代は終わったのかもしれない。これからは、達人がいなくても学びが回る教室をつくる時代である。タブレットには勝てない。だからこそ、タブレットにはできないことを教師が担う。その挑戦こそが、これからの社会科教育なのだと思う。

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