「遊んでしまう授業」はダメですか? 〜サッカーで考えると見えてくる、“主体性”の正体〜

今日は、少しお願いがあります。この文章を、最後まで一人で読まないでください。途中で止まっていいんです。隣の先生でも、家族でも、友達でもいいので、「こんな考え方、どう思う?」と、誰かに話しながら読んでみてください。もしかすると、この文章そのものが、「主体的・対話的で深い学び」の実験になるかもしれません。

教育の話をしていると、よく聞く言葉があります。

「グループにすると遊んでしまうんです」
「話してばかりで授業にならないんです」

でも、その言葉を聞くたびに、私はこんな問いが浮かびます。

それ、サッカーならどうでしょうか。

子どもたちがゲームを始める。すると、声を出す。笑う。夢中になる。勝手に動く。「もう1回!」と言い始める。時には、指導者の話よりゲームをやりたがる。

ここで、一度隣の人に聞いてみてください。

「これって、悪い状態かな?」

おそらく多くの人は、「いや、むしろ自然だよね」と感じるのではないでしょうか。だって、サッカーは楽しいんです。楽しいから、もっとやりたくなる。もっと関わりたくなる。

つまり、主体性とは、「やりなさい」と言われて出てくるものではなく、「やりたい」と感じた時に自然と生まれるものなのかもしれません。

もちろん、基礎練習は必要です。でも、もしサッカーが、
「次、パス」
「次、ドリブル」
「そこ並んで」
「今は話を聞いて」
だけだったらどうでしょう。

少し想像してみてください。

試合なし。ゲームなし。自由なし。指示待ちだけ。

その環境で、主体的な選手は育つでしょうか。

ここ、一度誰かに送ってみてもいいかもしれません。

「これ、授業にも似てない?」

と。

サッカーを知っている人ほど分かると思うんです。選手が一番考えるのは、ゲームの中です。

「どこに動こう」
「誰につなごう」
「今は攻める?」
「守る?」
「どうすれば勝てる?」

そうやって、判断し、対話し、工夫し、失敗し、また挑戦する。

つまり、主体性が最も生まれている時間って、実は「遊んでいるように見える時間」だったりするんです。

では、授業はどうでしょう。

サッカーでは「ゲームが大事」「楽しさが大事」と言うのに、授業になると急に、
「静かに」
「前を向いて」
「話さない」
「まず聞く」
になる。

でも一方で、「主体的・対話的で深い学びを」とも言う。

ここに、少し矛盾はないでしょうか。

もし感じたなら、ぜひ周りの人に聞いてみてください。

「主体的って、“静か”と同じ意味なのかな?」

日本ではよく、「楽しい授業を」と言います。でも、楽しい授業をしたいなら、まず楽しく学べる環境が必要なんです。

サッカーで言えば、試合があるから夢中になる。ボールに触れるから考える。仲間がいるから対話する。ゴールがあるから工夫する。

つまり、“主体性が生まれる構造”が先にあるんです。

すると必ず、「でも、規律が…」という話になります。でも、サッカーにも規律はあります。ルールがある。ゴールがある。仲間を大切にするという原則がある。

だからこそ、その中で自由に動ける。

授業も同じではないでしょうか。

今日の目当てがある。最後に振り返りがある。学びのゴールがある。その原則さえ共有されていれば、途中はもっと遊び心があっていい。

友達と話していい。試していい。失敗していい。笑っていい。

その方が、“自分の学び”として動き始めるからです。

逆に考えてみます。

もし授業が、
「指示を待つ」
「正解を待つ」
「静かに座って耐える」
そんな45分の繰り返しだったら、どんな力が育つでしょう。

ぜひ、家族や同僚にも聞いてみてください。

「毎日それを6時間続けたら、人はどうなると思う?」

サッカーで言えば、
試合なし。
ボールはほとんど触れない。
ずっと整列。
ずっと説明。
時々当てられる。

そんな練習を毎日やっているようなものです。

その環境で、本当に判断力や創造性や主体性は育つのでしょうか。

子どもが話してしまう。遊んでしまう。夢中になってしまう。

それを、「ダメな状態」と見るのか。それとも、「学びに向かうエネルギーが動き始めた状態」と見るのか。

その見方一つで、授業は大きく変わるのかもしれません。

そして、もしここまで読んで少しでも何か感じたなら、ぜひ誰かにこんな問いを投げてみてください。

「主体性って、静かに育つものなのかな。それとも、夢中の中で育つものなのかな。」

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