第9回 何を学ぶかの前に、どこで学ぶのか

学校では、繰り返しこう問われてきた。

何を学ばせるのか。
どう学ばせるのか。

もちろん重要である。

しかし、その前に問うべきことがある。

どんな環境で学ばせるのか。

この問いは、あまりにも後回しにされてきた。

どれだけ内容を精選しても、
どれだけ方法を工夫しても、

環境がそれを支えていなければ、
学びは成立しない。

サッカーで考えてみる。

ボールがある。
仲間がいる。
互いが見える。

この状態があって初めて、
プレーは成立する。

教室も同じではないだろうか。

関わりが見える。
声が届く。
反応が返ってくる。

その状態があって初めて、
学びは動き出す。

前向き一斉配置では、

・視線は前に固定される
・関わりは制限される
・反応は教師に集まる

つまり、

関係が生まれにくい構造

になっている。

その上で、

「対話しなさい」
「学び合いなさい」

と言っている。

ここに無理がある。

一方で、コの字型やグループ型では、

・視線が交わる
・声が届く
・反応が返ってくる

関係が自然に生まれる。

この違いは、単なる配置の違いではない。

学びの成立条件の違いである。

ここで思い出したいのが、佐藤学の考えである。

学びは個人の内側で完結するものではない。
他者との関わりの中で深まっていく。

つまり、

関わりは方法ではなく、前提である。

そしてもう一つ、
畑喜美夫の言葉が重なる。

人を変えようとするな。
環境を変えろ。

関わらない子に、関わりなさいと言う。
主体性がない子に、主体的になれと言う。

しかし、それは順番が逆である。

関わらざるを得ない環境に置かれたとき、
人は自然と関わり始める。

だからこそ問いたい。

その教室は、
関わらざるを得ない環境になっているのか。

個別最適な学び。
自由進度学習。
評価の工夫。

どれも重要である。

しかしそれは、

関わりが成立する環境の上に乗るものである。

土台がなければ、機能しない。

順番を戻したい。

何を学ぶか。
どう学ぶか。

その前に、

どこで学ぶのか。

どんな関係の中で学ぶのか。

ここを問い直すことなしに、
学校は変わらない。

環境が変われば、学びは変わる。

それは理想論ではない。

前提の話である。

その前提を、
どこまで本気で整えようとしているだろうか。

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