前回、目が合わないサッカーという極端な例を出した。
今回はもう一歩踏み込みたい。
なぜそれが「ありえない」と言い切れるのか。
そこをはっきりさせておきたい。
結論から言うと、理由は単純である。
サッカーは、関係の中で成立する競技だからである。
サッカーには、常に選択がある。
出すか、持つか、走るか。
どこに動くか、いつ動くか。
これらはすべて、その場の状況によって変わる。
そしてその状況は、
・味方の位置
・相手の動き
・スペースの変化
によって決まる。
つまり、自分一人では決められない。
ここで必要になるのが「つながり」である。
味方が何をしようとしているのか。
どこに動こうとしているのか。
今、何を見ているのか。
これを瞬時に感じ取るために、人は何を使っているのか。
視線である。
目が合うことで、
・意図が伝わる
・タイミングが合う
・次の動きが共有される
言葉がなくても、プレーがつながる。
逆に言えば、目が合わない状態では、これがすべて失われる。
・パスは偶然になる
・動きはバラバラになる
・連動は起きない
だから、サッカーにおいて、1アイを許さない状況は、構造的に成立しない。
では、教室はどうだろうか。
前向き一斉配置では、子どもたちの視線は前に固定される。
隣を見る必要はない。
向かいを見ることもない。
つまり、子ども同士の1アイが起きにくい構造になっている。
それでも授業は成立しているように見える。
なぜか。
教師がすべてをつないでいるからである。
・誰が発言するか決める
・内容を整理する
・全体に共有する
・つまずきを拾う
本来、関係の中で処理されるはずのものを、すべて教師が引き受けている。
これは、先ほどのサッカーで言えば、監督がピッチの中のすべてを指示している状態である。
「今出せ」
「そこ動け」
「戻れ」
それで試合は成立するかもしれない。
しかし、それは、選手同士がつながっているサッカーではない。
教室も同じである。
教師の力で授業は回る。
しかしそれは、子ども同士がつながって学んでいる状態とは限らない。
ここに、大きな違和感がある。
なぜ私たちは、サッカーでは絶対に採用しない環境を、教室では当たり前にしているのだろうか。
なぜ、
・目が合わない
・関係が生まれにくい
・つながりが制限される
そんな構造を前提にしているのだろうか。
そして、その上で
「主体的に学びなさい」
「対話しなさい」
と言っている。
少し厳しく言えば、それは無理な要求である。
構造がそれを許していないからである。
岡田武史は、選手が自ら判断し、仲間とつながることの重要性を繰り返し語っている。
その前提にあるのは、つながれる環境があることである。
教室も同じではないだろうか。
つながることが前提になっていない環境で、つながる力だけを求める。
そのズレに、そろそろ気づいてもいい。
1アイという小さな視点で見たとき、教室の当たり前は、かなり不自然である。
目が合わないサッカーが成立しないように、
目が合わない学びも、本来は無理がある。
その無理を支えているのは、いつも教師である。
だからこそ、問い直したい。
その教室の形は、本当に子どもたちをつないでいるのか。
それとも、つながりを止めてしまっているのか。

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