「教えてくれよ。」では、主体性は育たない。

サッカー日本代表の試合を見ていると、給水タイムでいつも印象的な場面があります。監督が選手を集めて一方的に指示を出すのではなく、選手たちが自然と集まり、自分たちで話し合いを始める。そして、森保一監督は少し離れた場所から、その様子を静かに見守っています。

この光景を見て、「監督は何もしていない」「もっと指示を出せばいいのに」と感じる人もいるかもしれません。しかし、私はこの立ち位置こそが、主体性や非認知能力を育てるためのリーダーの姿だと思っています。

実は、このようなマネジメントは誰にでも受け入れられるものではありません。これまで「言われたことをやる」「答えは監督が教えてくれる」という環境で育ってきた選手ほど、戸惑います。

「教えてくれよ。」

「指示してくれよ。」

「何をすればいいのか分からない。」

「監督は何をしているんだ。」

そんな不満が出てくるのも無理はありません。

しかし、その言葉をよく見てみると、ある共通点があります。

主語が、すべて「監督」なのです。

「監督が教えてくれない。」

「監督が指示してくれない。」

「監督が何とかしてくれない。」

そこには、自分がありません。

他力本願。他人任せ。監督任せ。自分のプレーや判断の責任を、自分以外の誰かに委ねている状態です。

一方で、主体性のある選手は考え方が違います。

「今、何を変えればいいだろう。」

「自分は仲間に何を伝えよう。」

「どうすればチームは良くなるだろう。」

主語は、いつも「自分」です。

森保監督が育てようとしているのは、監督の指示どおりに動く選手ではありません。自分で考え、自分で判断し、自分で責任を負える選手です。

だから、あえて教えすぎない。だから、あえて一歩下がる。

その姿を「何もしない」と見るか、「引き出している」と見るか。この違いはとても大きいと思います。

これは学校教育でも同じです。

教師が答えを与え続ければ、「先生、次は何をすればいいですか」と聞く子どもが育ちます。教師が細かく指示を出し続ければ、「先生が言ってくれなかったからできませんでした」という子どもが育ちます。

しかし、教師が問いを投げ、子ども同士の対話を支え、必要なときだけ背中を押す環境では、「まず自分で考えてみよう」という子どもが育っていきます。

主体性は、「主体性をもちなさい」と教えて育つものではありません。

自分で考え、自分で決め、自分で責任をもつ経験を積み重ねることで育つものです。

だからこそ、リーダーは前に立ち続けるだけが仕事ではありません。

時には一歩下がり、相手を信じて待つことも仕事です。

森保一監督の給水タイムでの立ち位置は、サッカーの戦術だけではありません。

それは、これからの教育や組織づくりに必要な、「引っ張るリーダー」から「引き出すリーダー」への転換を象徴しているように、私には見えます。

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