アシダカグモを見ると、多くの人がこう思う。
「でかい!怖い!」
見た目のインパクトは強い。足は長いし、動きも速い。突然出てきたら、驚く人も多いと思う。
でも一方で、「ゴキブリを食べてくれる益虫だよ」とも言われる。すると今度は、“いい蜘蛛”という扱いになる。
ここに、人間の「レッテル貼り」の本質がある気がしている。
よく考えてみると、蜘蛛そのものは、ただ蜘蛛として存在しているだけである。なのに人間は、
・気持ち悪い
・怖い
・役に立つ
・便利
・得をする
・害がある
そんな“自分側の基準”で、「いい」「悪い」を決めている。
つまり、「いい蜘蛛」「悪い蜘蛛」ではなく、“自分に都合がいいかどうか”で判断していることが多いのである。
これは、人間関係にもよく似ている。
例えば学校。厳しい先生がいたとする。ある子にとっては「怖い先生」になる。でも別の子にとっては、「自分を成長させてくれた先生」になる。
同じ人間なのに、立場や経験が変わるだけで、評価は真逆になる。つまり、人は事実を見ているようで、実は“自分のフィルター”を通して見ているのである。
よく、「見た目で判断しない」と言う。でも、本当は簡単ではない。なぜなら人間は、瞬時に意味づけして生きる生き物だからである。
危険か。安全か。得か。損か。自分にとってどうか。脳は常に判断している。
だから、レッテルを貼ってしまうこと自体は、ある意味、人間らしい。
問題は、そのレッテルを“絶対の正義”だと思い込んでしまうことなのではないか。
だからこそ大事なのは、「その判断基準は、誰のためのものか?」を問い続けることなのだと思う。
自分が怖いから悪なのか。自分に得がないから価値がないのか。周りがそう言っているから、そう見えているだけなのか。
この問いを持てるかどうかで、人との関わり方は大きく変わる気がする。
面白いのはここである。アシダカグモは、別に“いい蜘蛛になろう”なんて思っていない。ただ、自分の役割を生きているだけ。害虫を食べ、その命を生きているだけ。それを見た人間が、勝手に「いい蜘蛛」「悪い蜘蛛」と言っているのである。
人間も、誰かのレッテルで生き始めると苦しくなる。
「いい先生」「ダメな先生」「優秀な子」「問題児」「意識が高い」「空気が読めない」
そんな言葉に、いつの間にか縛られていく。
でも本当に大切なのは、「どう見られるか」より、“どう在りたいか”なのではないだろうか。
教育現場でも同じなのかもしれない。
「主体性がない子」と言われる子も、本当に主体性がないのではなく、主体性を出せる環境にいなかっただけかもしれない。
「問題児」と呼ばれる子も、問題なのではなく、今の構造に適応できず苦しんでいるだけかもしれない。
でも人は、すぐにレッテルを貼る。
「できる子」「できない子」「伸びる子」「扱いづらい子」
そんな言葉で整理し始める。しかし、その見方自体が、大人側の都合によるものかもしれないのである。
以前、「学校は幸せになるためにある」「応援される人になるためにある」という話を書いた。
これも結局、周りのレッテルで生きるのではなく、
・自分は何を大切にするのか
・誰の役に立ちたいのか
・どう在りたいのか
そこを持つことにつながっている気がする。
すると、周りの「いい」「悪い」に振り回されにくくなる。
このシリーズで言いたいことは、「正しいレッテルを貼れ」ではない。むしろ逆である。
人は簡単に、誰かを決めつける。だからこそ、“自分の見方を疑える人”でありたい。
そして、誰かを「問題」と見る前に、「その子は、どんな役割を生きているんだろう」と考えられる大人でありたい。
教育も、育成も、そこから変わり始めるような気がしている。

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