主体的・対話的で深い学びを語る前に ―100年前の教室のままでいいのか―

「主体的・対話的で深い学び」。いま、日本の教育を語るとき、この言葉を聞かない日はない。しかし私は、この言葉を耳にするたびに一つの疑問を抱く。それはとても単純な問いである。教室の座席配置に、なぜ誰も疑問を呈さないのだろうか。

教室に入ると、子どもたちは机を前に向けて整然と並んでいる。教師は前に立ち、黒板に向かって話す。子どもは教師を見る。教師は子どもに説明する。この構造は、ほとんどの学校で変わらない。しかし、この配置が前提としている学びは明らかである。教師が話し、子どもが聞く学びである。

一斉前向きの座席配置とは、もともと効率よく同じ内容を教えるために生まれたものである。つまりこの教室は、「説明する教育」のために設計されている。

ところが、いま私たちは言う。主体的に学ぶ子どもを育てたい。対話的に学ぶ授業をつくりたい。深い学びを実現したい。しかし、そのときの教室を見てほしい。子どもたちは皆、前を向いている。隣の子どもの顔さえ見えない。話す相手は、基本的に教師だけである。それでも私たちは言う。「対話的な学びをしよう」。ここには、見過ごされている矛盾がある。

主体性を語りながら、100年前と同じ教室を続けていないだろうか。

サッカーで考えてみるとわかりやすい。もし監督が、選手を全員ベンチに座らせてこう言ったらどうだろう。「主体的にプレーしなさい」。選手は困るはずだ。サッカーは、ピッチに立たなければ始まらない。教育も同じである。学び方の前に、学びが生まれる環境がある。

例えば、コの字型の座席配置。あるいは、グループのアイランド型配置。この配置に変えると、教室で起きることが変わる。子ども同士の顔が見える。発言が循環する。自然に相談が生まれる。つまり、努力して対話をつくるのではなく、対話が起こりやすい環境になる。

環境は行動を変える。これは教育だけではない。スポーツでも、職場でも、すべて同じである。それにもかかわらず、日本の教育は自由進度学習だとか個別最適化だとか、新しい方法を次々に語る。もちろん、それらは大切だ。しかし、その前に問うべきことがあるのではないだろうか。教室の環境そのものは、主体的な学びを支えているのか。

100年前の教室でも、教師が努力すれば主体的な学びは生まれる。しかし、それは環境に逆らう教育である。本来、教育は逆ではない。環境が学びを後押しするものであるべきだ。

主体的・対話的で深い学びを本気で実現するなら、まず問い直すべきことがある。授業方法の前に、教室という学習環境をどう設計するのかという問いである。子どもたちが顔を見合わせて学ぶ教室なのか。それとも、教師の背中を見る教室なのか。私たちは、まだその問いを本当の意味で議論していないように思う。

教育を変えるというと、私たちは大きな改革を想像する。しかし、本当の変化は、もっと小さなところから始まるのかもしれない。

もしかするとそれは、机の向きを変えることから始まる。

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