【第7回】 「必要な時だけ」では、必要な時は来ない 〜デフォルトが人をつくるという、見落とされがちな事実〜

「コの字型やグループ型がいいのは分かるけど、必要な時だけそうすればいいんじゃないですか?」

この反応は、とてもよく分かる。

むしろ、かなり自然な感覚だと思う。
• 普段は前向き一斉
• 話し合いが必要な時だけペア
• 深めたい時だけグループ
• 発表や討論の時だけコの字

一見すると、合理的に見える。

でも、ここに学校がずっと見落としてきた“かなり大きな落とし穴”がある。

それは、人は、「必要な時」に動くのではなく、
“最初からそうなっている環境”に強く引っ張られる

ということだ。

つまり、本当に大事なのは「必要な時だけ変えること」ではなく、何が“当たり前”として置かれているかなのである。

ここを変えない限り、教室の学び方は、想像以上に変わらない。

「必要な時だけ」は、なぜ起こらないのか

まず考えてみたい。

本当に学校の中で、「必要な時だけペアやグループにする」は、どれくらい起きているだろうか。

もちろん、ゼロではない。

でも、正直に言えばどうだろう。
• 少し話し合えば深まりそうな時
• 子ども同士で確認した方が早い時
• 自分の考えを整理するために隣と話した方がよい時
• 友達の視点をもらった方が理解が進む時

そういう場面は、1年間の授業の中に、実はかなりあるはずである。

にもかかわらず、実際にはどうか。

「まぁ今日はこのままでいいか」
「時間がないし、このままいこう」
「わざわざ動かすほどでもないか」
「また今度でいいか」

そうやって、その“必要な時”は、案外あっさり流れていく。

そして気づけば、また前向き一斉のまま終わっている。

これが現実ではないだろうか。

1015時間のうち、何回“必要な時”は来るのか

ここで、一度問いかけたい。

1年間の授業時数の中で、「今こそペアやグループやコの字にした方がよい」場面は、何回あるだろうか。

小学校では、年間の標準授業時数は学年にもよるが、かなりの時間数になる。

その中で、
• 一人で考えるだけでなく
• 誰かに話してみた方がよくて
• 確認し合った方が理解が深まって
• 他者の考えを通して、自分の考えが揺さぶられる

そんな時間は、本当は何度もあるはずである。

でも、「必要な時だけ」にしていると、その“必要”が見えにくくなる。

いや、もっと言えば、“必要”があっても、デフォルトが強すぎて動かないのである。

これがかなり大きい。
人は、「変えられる」より「変えない」を選ぶ

なぜそうなるのか。

理由は、単純である。

人は、変えられる状況にあっても、基本的には変えない。

これは、子どもだけでなく大人もそうである。

人は、思っている以上に
“今のまま”に引っ張られる。

これを、いろいろな分野ではデフォルトの力として考えることがある。

要するに、最初から設定されているものが、人の行動をかなり左右する

ということだ。

これ、教育でもものすごく大事なのに、あまり語られない。

でも本当は、教室づくりにおいてかなり本質である。

スマホの設定を、どれだけの人が変えるだろうか

たとえば、スマホを思い浮かべてみる。

最初から入っている通知設定、文字の大きさ、表示方法、並び順、細かな初期設定。

本当は変えられる。

でも、多くの人はそこまで変えない。

なぜか。

面倒だから。
今のままでも一応使えるから。
である。

つまり、変えられることと、実際に変えることは別

なのだ。

学校の教室も、実はかなりこれに近い。

「必要ならペアにできます」
「必要ならグループにできます」
「必要ならコの字にもできます」

確かにその通り。

でも、“できる”ことと、“日常的にやる”ことは全然違う。

ここを見誤ると、教育の中で「本当は大事だったはずのこと」が、ずっと“たまにやる特別なこと”のまま終わってしまう。

臓器提供の話が教えてくれること

ここで、少しだけ別の例を出したい。

よく知られている話の一つに、臓器提供の意思表示に関するものがある。

国によっては、
• 「希望する人が自分で登録する」方式
(=何もしなければ提供しない)

国もあれば、
• 「原則として提供する」方式
(=嫌な人だけ自分で外す)

国もある。

つまり、最初の設定(デフォルト)が違うのである。

すると、どうなるか。

研究や各種解説で繰り返し指摘されているのは、この“最初の設定の違い”だけで、同意率が大きく変わるということだ。

ここで大事なのは、臓器提供の是非そのものではない。

大事なのは、人は、信念だけで動いているのではなく、“最初からどうなっているか”にかなり影響される

という事実である。

これ、教室でもまったく同じではないだろうか。

「必要なら話していいよ」では、話し合いは文化にならない

教室で、「必要なら隣と相談していいよ」と言うことはある。

でも、それが本当に文化として根づくかというと、実はかなり怪しい。

なぜなら、その教室のデフォルトが
• 基本は前を見る
• 基本は教師の話を聞く
• 基本は勝手にしゃべらない
• 基本は静かに待つ

になっていたら、子どもたちの身体感覚としては、

「話していい」は“例外”

だからである。

そして、人は例外行動を続けるのが苦手だ。

だから、「必要な時だけ話し合いましょう」は、制度としてはあっても、文化としては育ちにくい。

つまり、話し合いの技術を教える前に、“話し合っていい空気”をデフォルトにしておく必要があるということだ。

ここを飛ばして、いきなり主体的・対話的な学びを求めても、
なかなか育たないのは当然かもしれない。

協働の学びは、「特別」ではなく「日常」でないと育たない。

ここが、かなり大事なポイントである。

もし本当に育てたいものが、
• 主体性
• 対話性
• 協働性
• 学び合う力
• 自分の考えを他者と擦り合わせる力

であるなら、それは「たまにやる活動」では足りない。

なぜなら、人の力は、“特別な場面”ではなく、“日常の繰り返し”の中で育つ

からである。

たとえば、サッカーでもそうだ。

試合の時だけ
「周りを見て判断しよう」
「味方とつながろう」
「自分で選ぼう」

と言われても、普段の練習でその環境がなければ育たない。

教室も同じである。

共同で学ぶ力を育てたいなら、共同で学ぶことが、当たり前に起きる構造になっていなければならない。

だからこそ、「必要な時だけつながる」ではなく、「最初からつながれる状態にしておく」

ことが大事になる。

「前向きで集中」「つながりで学ぶ」

この二つは、対立しない

ここで誤解されたくないのは、前向き一斉を全部否定したいわけではないということだ。

前を向いて集中する時間は必要である。

教師が全体に語りかける時間も必要である。

静かに一人で考える時間も必要である。

でも、それは、“いつでも前を向ける”ようにしておけばよいのであって、“最初からずっと前向きである必要”とは別

である。

ここを逆に考えたい。

これまで学校は、基本は前向き。必要な時だけつながる。

だった。

でももし、子どもたちに本当に育てたいものが主体性や対話性や協働性なら、

基本はつながれる。必要な時に前を向く。

この発想の方が、実は自然ではないだろうか。

この違いは、かなり大きい。

なぜならそれは、単なる机の置き方ではなく、学びの前提をどこに置くかという話だからである。

最後に

「必要な時だけでいいじゃないか」

その言葉は、一見もっともに聞こえる。
でも、人はそんなに器用ではない。

子どもも、大人も、思っている以上に“最初に設定された当たり前”に引っ張られて生きている。

だからこそ、もし本当に
• 主体的な学び
• 対話的な学び
• 協働する学び
• 自走する学び

を育てたいのなら。

変えるべきなのは、特別な活動の時だけの方法ではなく、毎日そこにある“教室のデフォルト”

なのかもしれない。

そしてそれは、ものすごく大がかりな改革ではない。

机を少し動かす。
顔が見えるようにする。
つながりやすくする。

たったそれだけのことが、子どもたちの学び方そのものを、少しずつ変えていく。

だから私は思う。

「必要な時だけ」では、必要な時は来ない。
だからこそ、最初から“つながれる環境”を置いておきたい。

その方が、子どもたちも、教師も、もっと自然に学び合えるのではないかと思う。

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