シェークスピアのこの言葉は、教育にもサッカー指導にも、鋭く突き刺さる。
多くの教師や指導者が「主体的な学び」や「自ら考える選手」を育てたいと願う。
その思いは正しい。
だが、その出発点――つまり前提が間違っていれば、どれほど立派な指導も、結果的には“受け身”を生み出してしまう。
教室の前提:前向き一斉という無意識の構造
教育現場では、「主体的・対話的で深い学び」を掲げながら、
ほとんどの授業が“前向き一斉座席配置”で始まる。
子どもたちは、話を聞く人として配置され、教師は語る人として中央に立つ。
つまり、構造的に「受け手」と「送り手」に分かれている。
どんなに工夫しても、この構造のままでは、主体性は後付けになってしまう。
まさに――
「あなたの授業改革は正しい。ただ、前提が間違っている以外は。」
グラウンドの前提:主体性を支える構造
昨晩、NHKで、お好みワイドひろしまという番組を見た。その番組内の、畑喜美夫氏に関するボトムアップ指導の映像は、その“前提”が正しく設計された理想の指導だった。
コーチがすべてを指示するのではなく、選手同士のやりとりが中心にある。
プレーの合間には選手たちが自然に声を掛け合い、目線を交わし、互いに確認しながら修正していく。
コーチはその輪の外に控えめに立ち、必要なときにだけ問いを投げかける。
まるで「学び合う教室」をグラウンド上に再現したようだ。
ここでは、選手がコーチの周りに集まって“答え”をもらう構図はない。
池の中の鯉が餌をもらうように群がるのではなく、
自分たちで円をつくり、互いのプレーを見て考え、試す。
この形こそが、前提が正しい指導だ。
つまり、主体性が“結果として現れる”のではなく、最初から主体性を前提に設計された環境。
教育とサッカー、同じ構造
教室もグラウンドも、「場のデザイン」が学びを規定する。
一斉座席で主体性を語るのが難しいように、
コーチ中心の円で対話的なサッカーを語るのも矛盾している。
主体的な学びやプレーは、まず配置の自由、発言の自由、関わりの自由から生まれる。
その自由を保証する構造をつくることが、教師や指導者の最初の仕事だ。
終わりに
主体性は“結果”ではなく“前提”である。
そして、その前提は、言葉や理念ではなく、場のデザインによってつくられる。
シェークスピアの言葉を借りるなら、こうだ。
「あなたの指導は正しい。ただ、前提が間違っていないからこそ、選手が主体的に動き始めている。」
グラウンドで、教室で――
指導者が立つ場所を一歩ずらすこと。
それが、子どもたちや選手が自ら考え、語り、動き出す最初の一歩になる。
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