「波動が高い」「周波数を合わせる」
こうした言葉を聞くと、どこかスピリチュアルで、宗教っぽく感じてしまう。
実は私自身も、長くそう感じてきました。
理屈が飛ばされているような気がする。
何を根拠に言っているのか分からない。
それでいて、反論しにくい空気がある。
だから距離を取ってきました。
でも最近、「この言葉そのものが悪いのではない」と思うようになっています。
波動・周波数は、本来は科学の言葉
まず確認しておきたいのは、
波動や周波数は、もともと極めて科学的な概念だということです。
音、光、電波、心拍、脳波――
私たちの身の回りは、波と周波数で説明できる現象に満ちています。
この意味では、「波動」「周波数」は
怪しさとは真逆の、測定可能で再現可能な言葉です。
問題は、そこから話が飛ぶときに起こります。
違和感の正体は「言葉の省略」にある
私たちが引っかかるのは、こんな場面です。
• 「波動が高い人だからうまくいく」
• 「周波数を上げれば状況が変わる」
ここでは、「何が」「どう変わったのか」が語られていません。
本来あるはずの
行動・環境・関係性・時間
といったプロセスが、ごそっと省略されている。
その結果、「分かった気にはなるけれど、再現できない」話になる。
だから宗教っぽく感じるのです。
この違和感は、とてもまっとうです。
それでも「使える場面」は、確かにある
一方で、現実を丁寧に見ていくと、
「波動」「周波数」という言葉でしか表しにくい感覚があるのも事実です。
たとえば、
• 同じ内容を話しているのに、伝わる日と伝わらない日がある
• ある人が入ると、場の空気が一気に動く
• 言葉にする前に、雰囲気で理解がそろう瞬間がある
これらは決してオカルトではありません。
心理学で言えば、
• 感情の伝染
• 非言語コミュニケーション
• 同調・共鳴
• 心理的安全性
といった、研究対象になっている現象です。
「波動」「周波数」という言葉は、
それらを一言で束ねる“比喩”として使われている場合があります。
使うなら、ここを守りたい
だから私は、こう考えています。
波動・周波数という言葉は、
“説明を省略するため”ではなく、
“説明に入るための入り口”として使う。
具体的には、
• 感覚で終わらせない
• 必ず行動や事実に言い換える
• 因果を断定しない
たとえば、
「場の波動が良くなった」
ではなく
「発言するまでの間が短くなり、互いの話を受けて返すやり取りが増えた」
こうして初めて、言葉は地面に足がつきます。
言葉を疑うことは、学びを止めない
「波動って言われると引いてしまう」
そう感じる自分を、否定しなくていいと思います。
むしろそれは、
分かった気にならずに、考え続けようとする姿勢です。
そして同時に、
「なぜそう感じるのか」「何を指しているのか」を問い直せば、
その言葉は、学びの入り口にもなります。
だから私は、こう使いたい
私はこれからも、
「波動」「周波数」という言葉を、無批判には使いません。
けれど、
人と人のあいだで起きている、言葉以前の現象を語るとき、
あくまで比喩として、慎重に使うことはあると思います。
それは、
分からないものを神秘化するためではなく、
分かろうとするために。
違和感を大切にしたまま、言葉と付き合う。
その姿勢こそが、一番“地に足のついた態度”なのではないでしょうか。

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