なぜ、人は語らなくなるのか ―― 実名と匿名、その間にある壁 ――

 「本音はある。でも、名前が出るなら書かない。」
 これは、決して珍しい感覚ではない。とくに地域社会と日常的に関わる仕事に就いている人ほど、そう感じる場面は多いのではないだろうか。

 近年、ネット上の誹謗中傷が問題になる中で、「実名で発言するべきだ」という主張が強まっている。確かに、実名には抑止力がある。名前を背負うことで、言葉は慎重になり、無責任な発信は減る。これは間違いない。

 だが、その「正しさ」が、すべての立場に当てはまるかというと、話は単純ではない。

実名が、声を消してしまうとき

 たとえば公務員という立場を考えてみる。
 市役所や行政の現場は、地域と極めて近い距離にある。そこで働く人が実名で意見を発信した場合、その言葉は個人の考えであっても、「組織としての見解」と受け取られる可能性がある。

 少しの表現の行き違いが、誤解や誤報を生み、信頼関係や業務運営に影響を及ぼすこともあり得る。
 結果として何が起きるか。
 「ならば、黙っていよう」という選択だ。

 しかし、現場には社会に共有されるべき課題や気づき、改善のヒントが数多く眠っている。それが表に出ないままでいることは、誰の得にもならない。

二択にしない、という選択

 問題は、「実名か匿名か」という二者択一で考えてしまうことにある。
 本当に必要なのは、その中間にある仕組みではないだろうか。

 私が一案として考えているのは、実名登録・匿名掲載という形だ。
 投稿時には、新聞社や運営側が実名で本人確認を行う。責任の所在は明確にする。一方で、掲載時にはニックネームやアレンジネームを用いる。

 これなら、発信者は無責任にはなれない。
 同時に、立場ゆえの萎縮や不利益、不要な誤解からも守られる。

問うべきは「名前」ではなく「仕組み」

 誹謗中傷をなくすために必要なのは、実名か匿名かをめぐる感情的な議論ではない。
 誰が書いたかを運営側が把握し、責任ある言葉だけが社会に流れる仕組みをどうつくるか。
 そこにこそ、議論の焦点があるはずだ。

 自由な発言は、無責任な発言とは違う。
 責任を伴った自由を守るために、実名と匿名のあいだにある「もう一つの選択肢」を、私たちはもっと真剣に考えてよいのではないだろうか。

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