サッカーの指導の世界では、時々こんな言葉を耳にします。「自分のようなカリスマが教えれば人は集まる。人が集まらないのは指導者に力がないからだ。」つまり、指導の価値を「誰が教えるか」に置く考え方です。確かに優れた指導者が直接教えれば、短期間で上達することもあるでしょう。しかし、この考え方にはどこか危うさも感じます。そこでは選手が自分で考える力よりも、指導者に教えてもらうことが前提になってしまうからです。極端に言えば、その指導者がいなくなった瞬間に成長が止まってしまうチームになりかねません。
地域のサッカーの多くは、実際にはボランティアの指導者によって支えられています。仕事を終えた後にグラウンドに立ち、子どもたちと向き合い、地域のスポーツ環境を守っています。それにもかかわらず、「人が集まらないのは指導者に力がないからだ」と言い切るのは少し乱暴な考え方のようにも思えます。むしろ大切なのは、指導者がどれだけ教えられるかではなく、選手たちが自分たちで考え、試し、学び合う環境をつくれているかどうかではないでしょうか。仲間と話し合い、プレーの中で試し、失敗し、また挑戦する。その過程の中で、技術だけではなく考える力や協働する力が育っていきます。
このことを考えると、昔からよく言われている言葉を思い出します。「魚を与えるのではなく、魚の取り方を教えよ」という言葉です。魚を与えれば、その場では空腹は満たされます。しかし、魚の取り方を知らなければ、また誰かに魚を与えてもらうことになります。一方で魚の取り方を知っていれば、自分で生きていくことができます。この考え方は、教育にもそのまま当てはまるように思います。
学校の授業でも、教師が説明し、子どもたちが理解するという形は確かに効率的です。知識を短時間で伝えることができるからです。しかし、それだけでは「魚を与えている」状態に近いのかもしれません。大切なのは、子どもたちが自分で学び続けられる力を育てることではないでしょうか。つまり、「学び方」を学ぶことです。問いを持つこと、仲間と考えること、わからないことを共有すること、試しながら解決していくこと。そうした経験を重ねる中で、子どもたちは少しずつ自分で学び続ける力を身につけていきます。
サッカーでも学校でも同じことが言えるのかもしれません。教える人の力だけに頼るのではなく、自分たちで考え続けられる環境をつくること。魚を与えるのではなく、魚の取り方を伝えること。つまり、答えを与えるだけではなく、学び方を教えることです。教師や指導者の役割は、すべてを教えることではなく、子どもたちが自分で学び続けていけるような土台をつくることなのかもしれません。

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