ある新聞記事を読んで思った。
評価は、誰のためにあるのか
「通知表をなくしてしまえばいいのに」
そう口にすると、
「乱暴だ」「極端だ」と言われるかもしれない。
けれど、これは思いつきや感情論ではない。
現場で子どもと向き合ってきたからこそ、
どうしても問い直したくなる違和感がある。
オール1の通知表は、励みになるのか
断言する。
オール1の通知表をもらって、前向きになれる子どもはほとんどいない。
それは、努力が足りないからでも、
心が弱いからでもない。
そもそも、その評価の仕組みが
「前を向くため」に作られていないからだ。
通知表は、
できる子にとっては「安心」や「達成感」になる。
しかし、できない子にとってはどうだろう。
• 自分はダメだという確認
• 取り返しのつかない差を突きつけられる感覚
• 「どうすればいいか」は書かれていない紙
それはもはや評価というより、
レッテル貼りに近い。
通知表は「できる人間」が作った制度
少し厳しい言い方をする。
通知表という仕組みは、
比較や序列化に耐えられる人間を前提に設計されている。
• 評価を見て奮起できる
• 数字や段階を自己肯定感と切り離せる
• 家庭で十分なフォローがある
そうした条件を暗黙のうちにクリアできる子にとっては、
通知表は「情報」で済む。
だが、そうでない子にとっては、
通知表は人格評価にすり替わる。
「学力の評価」が
いつの間にか
「自分の価値の評価」になってしまうのだ。
学力は、もう“別の形”で見えている
では、通知表をなくしたら、
学力はどうやって示すのか。
実は、もう答えは出ている。
• 全国学力・学習状況調査
• 自治体独自の学力調査
• AIドリルやCBTによる到達度データ
学力は、
「評定」よりもはるかに細かく、
はるかに正確に、
見える化されている。
しかも最近の学力調査は、
• 平均点を見るためのものではなく
• どこでつまずいているか
• どんな誤答傾向があるか
• 次に何を指導すべきか
を示すためのエビデンスとして整備されつつある。
学力調査の問題は、
子どもへのテストであると同時に、
教師へのメッセージでもある、
という専門家の言葉は象徴的だ。
現場で起きている「評価の転換」
取材記事にある学校の実践は、示唆的だ。
• 点数を返して終わりにしない
• 「できたこと」「難しかったこと」「次のめあて」を言語化する
• CD層(未定着層)を重点的に支援する
• 教員自身が問題を解き、授業を見直す
そこにあるのは、
序列をつける評価ではなく、
支援につなげる評価である。
ここでは、通知表の段階評価は主役ではない。
主役は、
「この子の次の一手は何か」という問いだ。
通知表にかかる、あまりにも大きなコスト
もう一つ、見逃せない問題がある。
通知表作成にかかる、
• 膨大な時間
• 神経をすり減らす調整
• 説明責任への恐れ
この労力は、
本当に子どもの学びを前に進めているだろうか。
その時間を、
• 授業研究に
• 個別の声かけに
• 振り返りの対話に
使えたらどうだろう。
評価のための評価が、
教育の本体を圧迫していないか。
ここも、真剣に考える必要がある。
評価をなくすのではない
評価の「役割」を変える
誤解してほしくない。
私は
「評価をやめよう」と言いたいのではない。
言いたいのはこれだ。
評価は、序列をつけるためではなく、
次の支援を決めるためにあるべきだ。
もしそう考えるなら、
• 年1回
• 一斉
• 段階評価
• 取り返しのつかない印象を残す
通知表という形式は、
今の教育観と本当に合っているのか。
最後に
子どもの方が、
案外このことをよく分かっている。
「点数が下がったって言われても、
僕たちが下がったわけじゃない」
という言葉は、
評価に振り回されているのが
誰なのかを鋭く突いている。
評価を守るために、
子どもを傷つけていないか。
そろそろ私たちは、
「通知表をなくす勇気」ではなく、
「評価の意味を問い直す覚悟」を
持つ時期に来ているのではないだろうか。

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