女子サッカーに足りないもの――「教えない勇気」と「任せる文化」

週末、女子サッカーの大会に引率した。
ピッチの脇から見ていて、胸の奥に何とも言えない違和感が残った。
どのチームも整然と並び、指導者の号令で動く。
アップのメニュー、ミーティングの時間、作戦、交代の判断――そのすべてを指導者が仕切っていた。

ハーフタイムになれば、子どもたちはベンチに整列し、コーチの前でうなずく。
「右サイドが高すぎる」「ボールをもらうときの体の向きを変えろ」
選手はうなずきながら聴いている。しかし、その表情に「自分で考えている」気配は薄い。
試合が再開すると、また指導者の声が飛ぶ。
「前!」「戻れ!」「もっと広がって!」
――このチームの“主語”は誰なのか?

どのチームも、指導者を中心に回っていた。
選手が自分たちで動きを確認したり、意見を出し合ったりする姿はほとんど見られなかった。
“選手主体”という言葉はよく聞くが、現実は程遠い。
もしかすると、女子サッカーではまだ「選手が創るチーム」という文化が根づいていないのかもしれない。

そんな中、改めて見返したのが、畑喜美夫さんのYouTubeチャンネルにあるボトムアップ指導の映像(ビジャレアルの取り組みを紹介したもの)だった。
そこには、まったく違う光景が映っている。

選手たちは、練習の前から輪になって話し合う。
監督やコーチは、その輪の中には入らない。
「今日は何を意識したい?」「昨日の試合、どこがうまくいかなかった?」
問いを投げかけるだけで、子どもたちが自分の言葉で答えていく。
指導者は「教える人」ではなく、「気づかせる人」としてそこにいる。

試合中も同じだ。
ハーフタイム、コーチが話す時間は短い。
選手たちが自分で分析し、ホワイトボードに矢印を描きながら作戦を確認していく。
「こっちのスペースが空いてたよね」「もう少しコンパクトにしよう」
自分たちで課題を見つけ、解決策を話し合い、次のプレーに生かす。
そこにあるのは“任された自由”と“考える責任”。
その両方が、彼女たちを成長させているのだと感じた。

一方で、日本の女子サッカーの現場では、指導者が細部まで手を入れすぎている印象がある。
それは決して悪意ではない。
「勝たせてあげたい」「いいプレーをさせたい」という思いが、結果的に子どもの判断の機会を奪ってしまっている。
気づけば、選手は“駒”のように扱われ、指示がなければ動けなくなってしまう。

佐伯さんやビジャレアルの指導者たちは、「今こそ教えないスキルが必要だ」と語る。
この“教えない”とは、放任とは違う。
子どもが自分で考える時間を尊重し、失敗から学ぶプロセスを待つということだ。
ところが現場では、指導者の忍耐が試される。
「言えば早い」「直せば勝てる」と思ってしまう。
だが、その瞬間に選手の“考える芽”を摘んでしまう。

――選手たちは、自分の言葉でチームを動かしているだろうか。
――ミーティングで、子どもたちの声はどれくらい響いているだろうか。
――もし指導者が黙ったら、試合は成立するだろうか。

1990年代、日本男子サッカーも同じ課題を抱えていた。
監督の指示通りに動くことが“正解”だった時代。
しかし、海外の選手たちはその間に、ピッチの中で自ら考え、修正し、試合をつくっていた。
「主体的に判断する文化」を身につけるまでに、日本サッカーは何年もかかった。
女子サッカーはいま、その転換点にあるように思う。

ボトムアップ指導は、技術よりもまず「文化」を変える挑戦だ。
子どもたちに考えさせる、意見を聞く、任せる。
それは指導者にとって怖いことでもある。
でも、そこを乗り越えなければ、いつまでたっても「指導者のチーム」から抜け出せない。

選手が考え、決め、動く。
指導者は、そのプロセスを支える。
そんなチームが一つでも増えたとき、日本の女子サッカーは確実に変わる。

――私たちは、子どもたちの「考える力」を本当に信じているだろうか。
――教えるよりも、待つ勇気を持てているだろうか。

ピッチの上で、子どもたちの声が響く。
そんな光景を、私は本気で見たいと思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました