2025年最終日。
「健全な人は、相手を変えようとせず、自分が変わる。不健全な人は、相手を操作し、変えようとする。」
アドラーのこの言葉に、久しぶりに深く頷いた。
人を動かそうとする人は多い。
肩書き、立場、権限、年齢、経験。
そうした“外付けの力”を使って、相手を自分の思う形に近づけようとする。
でも、それは本当に強さなのだろうか。
健全な人は、自分の在り方を問い続ける。
「自分はどう振る舞うべきか」
「自分は何を引き受けるのか」
その問いを、他人に投げない。
一方で、不健全な人ほど、他人を変えたがる。
いや、正確に言えば「変えられると思っている」。
操作できると、信じている。
私は正直に言って、「人を変えようとする人間」を信用しないし、尊敬もしない。
さらに言えば、過去の栄光や実績、
「どこどこに勤めていた」
「昔はこうだった」
そんな話を振りかざして今を動かそうとする姿には、正直、残念以外何物でもないと思っている。
それがもう、ほとんど意味を持たなくなっていることに、気づいていないのだろうな、と思う。
なぜなら、本当に自分と向き合っている人ほど、過去を武器にしないからだ。
今、どう在るか。
今、何を引き受けているか。
評価されるのは、そこだけだ。
そして、「なぜこいつは変わらないのだろう」と首をかしげる人がいたとしたら、それもまた、分かりやすい話だ。
変わらないのではない。
変える必要がないところに立っているだけなのだ。
地位や立場を使って人を動かすことは、実はとても簡単だ。でもそれは、低いレベルの“支配”であって、決して“影響力”ではない。
今はまだ、出る杭は打たれる時代かもしれない。
しかし、確実に空気は変わり始めている。
肩書きで語る人より、生き方で語る人が残る時代へ。
操作する人より、自分を引き受ける人が認められる時代へ。
変わらないという選択をした人間が、
結果として「認められてしまう」時代は、
もう静かに始まっているのだと思う。

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