例えばサッカーに見る、日本の部活動の限界

例えば、サッカーを考えてみたい。

海外では、
インストラクト(教えること)と
コーチング(育て、導くこと)は、明確に役割が分かれている。
それぞれに専門性があり、当然のように報酬が支払われる。

戦術を教える人がいる。
技術を磨く人がいる。
心理面や成長段階を支える人がいる。
それぞれが役割を持ち、責任を持ち、対価を得る。

これは特別な話ではなく、
スポーツを「仕事」として成立させる社会では、ごく当たり前の構造だ。

日本の部活動では、すべてを教師が背負ってきた

一方、日本の部活動はどうだったか。

インストラクトも、コーチングも、
練習計画も、試合の引率も、保護者対応も、事故対応も、
すべてを一人の教師が担う構造だった。

しかも、その多くが時間外。
報酬はほぼなく、
「好きだから」「教育だから」「子どものためだから」という言葉で支えられてきた。

冷静に見れば、
これは“献身”というより、制度として無理があったと言わざるを得ない。

「そりゃ、やらない」は個人の問題ではない

「最近の教員は、部活をやりたがらない」
そう語られることがある。

だが、これは意欲や覚悟の問題ではない。

専門性を求められ、
責任を負わされ、
時間を削られ、
それでも対価がほとんどない。

この条件で「やれ」と言われたら、
「そりゃ、やらない」という判断は、むしろ健全だ。

問題は、やらない教員ではない。
そういう構造を、当たり前としてきた社会の側にある。

地域展開が問われているのは「覚悟」

部活動を地域に展開するというのは、
単に場所を移すことではない。

インストラクトとコーチングを分けるのか。
専門性に、きちんと報酬を払うのか。
責任の所在を、明確にするのか。

それらすべてに、
社会としての覚悟があるのかが問われている。

学校に戻らないのは、自然な流れだ。
なぜなら、これまでが「安すぎた」からである。

問いは、ここからだ

部活動を続けたいのなら、
続けるに値する条件を整えなければならない。

「教育だから無償で」
「善意だから成り立つ」
その時代は、もう終わった。

サッカーという一つの競技を見ても、
それは明らかだ。

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