主体性を育てたいと言いながら、いけすの鯉を育てていないか

ある中学校で印象的な言葉を聞きました。中学3年生の生徒がこう言ったのです。「先生、話し合いはいらないので、まず教えてください。僕たちはその教えを聞いて理解したいんです。隣の人とアウトプットする時間は必要ありません。」一方で、同じ学校の1・2年生はまったく逆のことを言いました。「先生がずっとしゃべると正直眠くなるんですよ。でも、問いを出してくれて、自分たちでグループで考えると“やった感”があるし眠くならないんです。」どちらも子どもたちなりの正直な感覚なのだと思います。しかしこの二つの言葉を聞いたとき、私はあることを考えました。学校の存在意義とは何なのだろうということです。

もし学校が「効率よく知識を教える場所」であるならば、「先生、教えてください」という学び方はとても合理的です。優れた教師の説明を聞けば短時間で理解することができるからです。しかし、この学び方には一つの危うさもあるように思います。それは、自分で餌を取りにいく力が育ちにくいということです。例えるなら、いけすの中の鯉のような状態です。口を開けていれば餌が投げ込まれる。だから自分で餌を探しにいく必要がありません。しかしもし餌をくれる人がいなくなったらどうなるでしょうか。トップレベルの一部の子どもたちは自分で伸びていくかもしれませんが、多くの子どもたちは教えてくれる人がいなくなった瞬間に成長の手がかりを失ってしまう可能性があります。

一方で、問いから始まる学びでは子どもたちはまず「どうしたらいいんだろう」と考えます。その問いを持って仲間と話し合い、試し、失敗し、また考える。わからないときには友達に聞き、教え合いながら少しずつ前に進んでいきます。その過程の中では、問題が解決したときの達成感が生まれますし、仲間と一緒に取り組む安心感も生まれます。達成感によるドーパミンと、人とのつながりを感じるオキシトシンが自然と生まれる環境と言えるかもしれません。そこには単に理解するという学びだけではなく、「できた」「みんなでわかった」という感覚が伴います。だからこそ子どもたちは「やった感がある」と感じるのではないでしょうか。

小学校時代の学級経験も、その後の学び方に大きく影響しているように感じます。小学校時代に教師が丁寧に教え続け、いわゆる縦糸が強い学級で育った子どもたちは、中学校に進んでも「先生、教えてください」と言ってくる割合が高い傾向があります。教師が説明してくれることを前提に学びを進める姿勢が身についているからです。一方で、小学校時代に学級がうまく機能していなかった、いわゆる崩壊気味だった学級の子どもたちは少し違います。先生が説明してくれることを前提にしていないので、自分たちで何とかするしかないという感覚を持っていることが多いのです。そのため問いを与えられたときに、自然と仲間と考え始める姿が見られます。

ここには一つの逆説があります。前者の学級で育った子どもたちは、知識の理解やテストの点数など、いわゆる「見える学力」は高いことが多いのです。教師の説明を聞き取り、理解し、再現する力が高いからです。しかしその学びは教師という存在に大きく依存していることも少なくありません。つまり、教えてくれる人がいれば力を発揮できるけれど、その人がいなくなったときに自分で学びを進める力は必ずしも強くない可能性があります。それに対して、崩壊気味だった学級で育った子どもたちは必ずしも見える学力が高いとは限りません。しかしその代わりに育っているものがあります。それは「見えない学力」とも言える力です。例えば、自分で問いを持つ力、仲間と考える力、わからないことを共有する力、教え合う力、試しながら解決していく力です。これらはテストの点数には表れにくいですが、社会の中ではむしろ重要になる力ではないでしょうか。

この構造は実はサッカーの指導にもよく似ています。サッカーの世界でも時々こんな考え方を耳にします。「自分のようなカリスマが教えれば人は集まる。人が集まらないのは指導者に力がないからだ。」つまり、教える人の力そのものに価値を置く考え方です。しかし地域のサッカーの多くは、実際にはボランティアの指導者によって支えられています。仕事を終えた後にグラウンドに立ち、子どもたちと向き合い、地域のスポーツ環境を守っています。それにもかかわらず「人が集まらないのは指導力がないからだ」と言い切ってしまうのは少し乱暴な考え方のようにも思えます。大切なのは指導者がすべてを教えることではなく、選手たちが自分たちで考え、試し、学び合う環境をつくることではないでしょうか。

主体性を育てたいと言いながら、100年前と同じ教室。前を向いて座り、先生の説明を聞き、ノートを取る。確かに知識を効率よく伝えるには合理的な形かもしれません。しかしこの形の中で育つのは「教えてもらう力」であって、「学び続ける力」ではないのかもしれません。もし学校の存在意義が「幸せになるところ」であるとするならば、単に知識を教えることだけではなく、自分で問いを持ち、仲間と考え、解決していく経験を積み重ねられる場所であることが大切なのではないでしょうか。教師の役割は餌を投げる人ではなく、子どもたちが自分で餌を見つけられる池をつくる人なのかもしれません。

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