――楡周平『限界国家』が突きつける、日本の思考停止
「再生可能エネルギー」「脱炭素」「環境にやさしい」
こうした言葉は、いつの間にか疑うこと自体がためらわれる“正義のラベル”になった。
だが、楡周平『限界国家』を読むと、その空気こそが、日本が限界に近づいている証なのだと突きつけられる。
問われているのは、賛否ではない
楡が繰り返し描くのは、
「賛成か反対か」
「推進か否定か」
という単純な二項対立ではない。
本当に問われているのは、
その政策が、現実の社会・経済・環境に対して、どんな“実態”をもたらしているのかを考えているのか
という一点だ。
メガソーラーは、その象徴的な例として浮かび上がる。
「太陽光=クリーン」という思考停止
太陽光発電は、言葉の響きだけなら理想的だ。
しかし現実には、各地で次のような光景が生まれている。
• 森林が伐採され、山肌がむき出しになる
• 保水力を失った土地が、豪雨時に災害リスクを高める
• 景観が破壊され、地域の合意形成が置き去りにされる
楡が示しているのは、エネルギーの「顔」だけを見て、その「裏側」を見ない日本社会の姿である。
環境に配慮している「つもり」で、
実際には環境を壊している――
このねじれは、決して小さくない。
経済合理性という視点の欠如
さらに見落とされがちなのが、経済の問題だ。
• 太陽光パネルの多くは海外製
• 利益は一部の事業者に集まり
• 地域には恒常的な雇用や技術が残らない
楡が本書で繰り返し指摘するのは、
「誰が儲かり、誰に何が残るのか」を問わない政策は、国家を疲弊させるという点だ。
再生可能エネルギーを導入した結果、
技術も産業も育たず、
廃棄物とリスクだけが残るとしたら――
それは果たして「未来への投資」と呼べるのだろうか。
「善意」が最も危険なとき
『限界国家』が一貫して描くのは、
悪意ではなく、善意と無知が結びついたときの怖さだ。
「環境のため」
「地球のため」
「次世代のため」
こうした言葉は、反論を封じる力を持つ。
その結果、問い直されるべき制度や仕組みが、
「正しいこと」として無検証のまま進んでいく。
楡は、その状態こそを「国家の限界」と呼んでいる。
必要なのは、立ち止まる勇気
メガソーラーの問題は、
太陽光発電そのものの是非ではない。
• 場所は適切か
• 本当に環境負荷は低いのか
• 誰に利益が流れ、誰が責任を負うのか
こうした当たり前の問いを、
感情やスローガンではなく、現実から考える力が、
いまの日本には決定的に欠けている。
『限界国家』は、
「反対しろ」とも
「推進しろ」とも言わない。
ただ一つ、
「考えることをやめるな」
と、静かに、しかし重く訴えてくる。
メガソーラーをめぐる議論は、
私たちがまだ“思考する国家”でいられるのかどうかを試す、
試金石なのかもしれない。

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