「主体的な学びが大事だ」
今、学校現場では本当によく聞く言葉である。
けれど、不思議なことがある。
「主体的な学び」を語り始めたはずなのに、
しばらくすると話はいつも、こんな方向へ流れていく。
• どんな活動を入れればよいか
• どんな手法が効果的か
• どういう授業展開にすればよいか
• どう発問すれば主体的になるか
• どんな方法なら盛り上がるか
つまり、
“子どもの状態”の話から始まったはずなのに、いつの間にか“方法論”の話にすり替わっていくのである。
なぜなのだろう。
最近、私は一つの仮説を持つようになった。
それは、今の教員たち自身が、「そういう教育文化の中で育ってきたのではないか」という仮説である。
研究主題を並べてみると、少し見えてくるものがある
試しに、附属小学校や研究校の研究主題をいくつか眺めてみた。
もちろん、どれもその時代の課題意識の中で真剣に考えられてきたものだと思う。
だから、ここでそれらを否定したいわけではない。
ただ、並べてみると、一つの傾向が見えてくる。
• 「○○する力」を育てる
• 「思考力・判断力・表現力」を高める
• 「新たな価値を創造する力」の育成
• 「未来を拓く子ども」の育成
• 「問い続ける力」
• 「活用する力」
• 「学びの質を高める」
こうした言葉たちは、どれも前向きで、教育的で、立派である。
でも、同時にそこには、ある共通点がある。
それは、
“何を達成させるか”が、かなり前面に出ている
ということだ。
つまり、
• どんな力をつけるか
• どんな能力を高めるか
• どんな子ども像に近づけるか
という、達成・向上・獲得の方向で研究が組み立てられていることが多いのである。
それは悪いことなのか
いや、悪いことではない。
力をつけることは大切である。
子どもが成長することも大切である。
学びが深まることも大切である。
問題は、そこではない。
問題は、“力が育つ前提”へのまなざしが、相対的に弱くなりやすい
ということだ。
たとえば、本当に考えたいのはこういうことではないだろうか。
• 子どもは安心しているか
• 話しても大丈夫だと思えているか
• 間違えても受け止められる空気があるか
• 「ここにいていい」と感じられているか
• 誰かとつながって学べる状態にあるか
こうしたことが整ってはじめて、
子どもは考えられる。
話せる。
挑戦できる。
学びに向かえる。
つまり、“力”の前に、“状態”があるはずなのである。
でも学校研究は、どうしてもその「状態」より先に、「どんな力を育てるか」に焦点が当たりやすかったのではないか。
そんな気がしてならない。
ドーパミン的な教育文化の中で、私たちは育ってきたのかもしれない
ここで、少し別の言い方をしてみたい。
人の幸せや意欲には、いろいろな側面があると言われる。
たとえば、
• ドーパミン
→ 達成、成果、できた、勝った、伸びた
• セロトニン
→ 落ち着き、安定、整う、安心して過ごせる
• オキシトシン
→ つながり、信頼、共感、認められる、居場所
この整理で学校を見た時、これまでの教育文化は、かなり長い間ドーパミン優位だったのではないかと思う。
• できたか
• 伸びたか
• 高まったか
• 達成したか
• 身についたか
もちろん、それは大事である。
でも、そればかりを前面に置いてきたとしたらどうだろう。
すると、教師自身もまた、
「教育とは、何かを達成させること」
「教育とは、力をつけさせること」
「教育とは、方法で成果を出すこと」
として、教育を受け取りやすくなる。
つまり、今の先生たちが方法論に寄りやすいのは、
先生たちのせいではなく、そういう教育文化の中で、先生自身が育ってきたからなのかもしれない。
だから「主体性」も、つい“方法”で語ってしまう
この仮説に立つと、今の学校で起きていることが、かなり説明できる。
本当は「主体的」とは、授業の方法のことではなく、子どもの学びの状態のことだったはずである。
でも、私たちはすぐに、
• どんな活動を入れれば主体的になるか
• どんな話し合いを入れれば主体的になるか
• どんなワークシートにすれば主体的になるか
• どんな授業技術なら主体的になるか
と考えてしまう。
なぜか。
それは、
“状態をつくる”より、“方法で達成する”方に慣れているから
である。
ここに、今の学校の苦しさがあるのではないかと思う。
では、本当に変えるべきものは何か
ここで問い直したい。
もし本当に主体的な学びを育てたいのなら、最初に変えるべきなのは何だろう。
授業技術だろうか。
発問だろうか。
教材研究だろうか。
活動の種類だろうか。
もちろん、それらは大事である。
でも、その前にあるものがある。
それは、子どもが主体的になりやすい“状態”をつくる環境である。
たとえば、
• 顔が見える
• 仲間の存在を感じられる
• 小さなつぶやきが許される
• 話しかけやすい
• 相談しやすい
• 「一人じゃない」と感じられる
そういう教室の空気や構造があるだけで、子どもの学び方はかなり変わる。
つまり、
主体性は、方法で起こす前に、環境で立ち上がるのではないか。
私は、そう思っている。
だから、座席配置の話は“ただの形”ではない
ここまで来ると、なぜ私が何度も「座席配置」の話をしているのかも、少し伝わるかもしれない。
コの字型やグループアイランド型にすることは、単なる見た目の変更ではない。
それは、子どもたちの学びの前提を変えることである。
前向き一斉の中でも、主体的な学びは成立する。
それは本当だと思う。
でも、それを成立させるには、教師のかなり高い力量が必要になる。
それよりも、普通の教師でも、普通の毎日の中で、子ども同士のつながりが自然に起きやすい環境を置く
その方が、はるかに再現性が高い。
ここに、これからの学校づくりのヒントがあるのではないかと思う。
最後に
今の先生たちが、「主体性」を語りながらも、つい方法論に走ってしまう。
それは、先生たちが悪いからではないのかもしれない。
もしかすると私たちは、長い間、
“まず達成”
“まず成果”
“まず力をつける”
という教育文化の中で育ってきたのかもしれない。
だからこそ、今必要なのは、その文化を否定することではなく、その土台にある“状態”へ、もう一度目を向けること
なのだと思う。
子どもが安心しているか。
つながれているか。
ここにいていいと思えているか。
学びを自分事として持てているか。
その問いから、本当の意味での「主体的な学び」は始まるのではないだろうか。

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