この話をすると、必ず出てくる反論がある。
「一斉前向きでも育つ」
「力量のある教師なら、主体性は育てられる」
「結局、教師の力量の問題でしょ」
この反論は、かなり強い。
しかも、半分どころか、かなり本質を含んでいる。
実際その通りだと思う。
一斉前向きの座席配置でも、主体性のある子は育つ。
そして、力量のある教師は、その環境の中でも子どもを育てる。
• 的確な指示
• 無駄のない発問
• 明快な説明
• こまめな確認
• 学級の空気を読む力
• 子どもの反応を拾う力
こうした力がある教師は、前向き一斉の中でも、子どもの内側に火をつけることができる。
これは否定しない。
いや、むしろそこには、これまでの教育実践の積み重ねがあり、学ぶべきものがたくさんあると思っている。
でも、ここで本当に問いたいのは、そこではない。
問いたいのは、「できるかどうか」ではない
問いたいのは、
“できるかどうか”ではなく、
“どちらの方が、普通の人間でも育てやすいか”
ということだ。
ここを間違えると、議論はすぐに「名人はできる」で止まってしまう。
もちろん、名人はできる。
でも、学校という組織が本当に目指すべきなのは、一部のスーパーティーチャーが成立させる教育ではなく、普通の教師が、普通の日常の中で、子どもたちを少しずつ育てられる教育
ではないだろうか。
ここは、かなり大きな違いである。
「個人技の教育」は、再現性が低い
一斉前向きでも主体性を育てられる教師はいる。
でも、その授業や学級が成立している理由をよく見ると、そこにはかなり高いレベルの“個人技”が入っていることが多い。
• 先を読む力
• 一瞬で判断する力
• 空気を整える力
• 子どもを引き込む話術
• 崩れかけを立て直す技術
• 子どもの反応を見ながら即興で変える力
これはすごいことだし、本当に尊敬すべきことだと思う。
でも同時に、それは
誰にでもすぐ再現できるものではない
という現実もある。
だからこそ、学校改革を考える時に必要なのは、「すごい先生ならできる」構造を語ることではなく、「普通の先生でも育ちやすい構造」をつくることだと思う。
環境が変わると、子どもの反応は変わる
そこで大事になるのが、教師の力量だけに頼らず、環境の力を使うという発想である。
その最も分かりやすいものの一つが、座席配置だ。
たとえば、
• コの字型座席配置
• グループアイランド型座席配置
こうした形にすると、何が起きるか。
単に「話し合いがしやすい」だけではない。
もっと手前のところで、
• 顔が見える
• 反応が見える
• 仲間の存在を感じやすい
• 小さなつぶやきが出やすい
• 「自分だけではない」と思いやすい
ということが起きる。
これが、かなり大きい。
人は、つながりを感じやすい環境にいるだけで、安心感が増す。
そしてその安心感の土台にあるものとして、近年よく語られるのがオキシトシンである。
オキシトシンは、「授業技術」の前にある
オキシトシンというと、少し大げさに聞こえるかもしれない。
でも、要はシンプルである。
人は、
• 見てもらえている
• 仲間とつながれている
• ここにいていい
• 一人ではない
と感じる時に、心が少し安定する。
少し安心する。
少し落ち着く。
その状態があるからこそ、人は初めて
• 考えられる
• 話せる
• 聞ける
• 挑戦できる
• 間違えられる
ようになる。
つまり、主体性は、「技術」で起こす前に、「安心」で立ち上がる
ということだと思う。
ここを飛ばして、「主体的になりなさい」と言っても、なかなか難しい。
だからこそ、まずは教室の中に
つながりやすい構造を当たり前に置くことが大事になる。
「崩れたらどうするんですか?」への答え
ここで、必ず出る問いがある。
「でも、そんな形にしたら崩れませんか?」
「しゃべりすぎたり、落ち着かなくなったりしませんか?」
これは、現場ではかなりリアルな不安である。
でも、この問いに対しては、はっきり言いたい。
だからやめる、ではなく、だから“そのための力”を大人が身につける必要がある。
ということだ。
つまり、
• どう声をかけるか
• どう始めるか
• どう見通しを持たせるか
• どう切り替えをつくるか
• どう関係を育てるか
• どう学び方を教えるか
こうしたことは、確かに必要になる。
でもそれは、「だから前向き一斉に戻そう」という話ではない。
むしろ逆である。
その環境を生かすための研修や実践こそ、これからの学校に必要なのだと思う。
ここを育てずに、「崩れるからやめよう」で止まってしまうと、学校はいつまでも
管理しやすいけれど、つながりにくい構造から抜け出せない。
人は、デフォルトに縛られる。
ここで、かなり大事なことがある。
それは、人は、思っている以上に“デフォルト”に縛られる
ということだ。
たとえば、職員室で考えてみる。
「では、少し相談しましょう」
「確認し合いましょう」
「アイデアを出し合いましょう」
そうなった時に、毎回自然に机を動かして、グループ型やコの字型にするだろうか。
おそらく、多くの場合そうならない。
なぜか。
机が重いからだけではない。
スペースが狭いからだけでもない。
もっとシンプルに言えば、めんどくさいからである。
そして、その“めんどくさい”が、実はものすごく大きい。
人は、少しでも動作が増えると、やらなくなる。
少しでも手間がかかると、「また今度でいいか」となる。
これは怠けているのではなく、人間の性質として自然なことだ。
だからこそ、共同で学ぶことを育てたいなら、
「必要な時だけそうする」ではなく、「最初からそれが当たり前になっている」ことが大事
なのである。
前を向けば集中できる。
なら、逆の発想をしてみたい
もちろん、前を向くこと自体を否定したいわけではない。
前を向けば集中しやすい場面はある。
教師の話を全員で受け取る時間も必要である。
でも、ここで発想を逆にしてみたい。
これまで学校は、基本は前向き一斉。必要な時だけつながる。
という発想で教室をつくってきた。
でも、もし目指すものが
• 主体性
• 対話性
• 自走する学び
• 協働する力
• 他者と学び合う力
であるなら、発想は逆でもいいのではないか。
つまり、基本はつながれる配置。必要な時に前を向く。
この方が、むしろ自然なのではないか。
この違いは、かなり大きい。
なぜならそれは、単なる机の置き方の違いではなく、
教室の“思想”の違い
だからである。
最後に
一斉前向きで、子どもを育てることはできる。
それは本当だと思う。
でも、そこで立ち止まりたくない。
本当に考えたいのは、
一部のスーパーティーチャーが成立させる教育ではなく、普通の教師が、普通の毎日の中で、子どもたちのつながりと主体性を育てやすい環境は何か
ということだ。
その問いに立った時、座席配置は、ただの形ではなくなる。
それは、
子どもたちの安心感をどうつくるか
つながりをどう日常化するか
学びをどう自走しやすくするか
という、教育の根っこに関わる話になる。
だからこそ、私たちが本当に変えたいのは、授業の中の“特別な場面”ではなく、
教室の“当たり前”そのもの
なのだと思う。


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