4月になると、学校の中にはきれいな言葉が並びます。
「主体的・対話的で深い学び」
「自ら学ぶ子」
「主体性の育成」
でも、正直に言うと、この言葉たちって、分かったようで、実は分かっていないまま使われていることが多い気がしています。
そしてその“分からなさ”が、授業や学級づくりを、どこかズレた方向へ連れていってしまうことがあります。
今日はまず、そこを整理したいと思います。
「自主的」と「主体的」は、同じではない
似ているようで、実はこの二つは違います。
自主的とは、言われなくても自分からやることです。
たとえば、
• 言われる前に掃除を始める
• 宿題を忘れずにやる
• 決められた係の仕事を進んでやる
こういう姿です。
これはもちろん、とても大事です。
でも、ここで一度立ち止まって考えたい。
その子は本当に、「自分で考えて動いている」のでしょうか。
もしかすると、「何をするか」はすでに誰かが決めていて、そのレールの上を自分から進んでいるだけかもしれません。
つまり、自主的とは、
“決められたこと”を、自分からやる力
とも言えます。
一方で、主体的とは何か。
主体的とは、何のためにやるのかを自分で考え、どう進めるかを自分で選びながら学んでいくことです。
つまり、主体的な子は、
• 言われたからやるのではなく
• やる意味を自分で持ち
• 必要ならやり方も変え
• 自分の学びを自分で調整していく
そんな状態にあります。
ここには大きな違いがあります。
言われなくても動く子=主体的、ではない
学校では、よくこんな子が「主体的」と言われます。
• 先生の話をよく聞く
• すぐ動ける
• 先回りして行動する
• 指示がなくてもやるべきことをやる
もちろん素晴らしいことです。
でも、それは本当に
「主体的」でしょうか。
もしかするとそれは、“学校という仕組みにとてもよく適応している姿”なのかもしれません。
ここを見誤ると、学校は「よく動く子」は育てられても、「自分で問いを持ち、自分で考え、自分で学びを進める子」を育てにくくなります。
つまり私たちが本当に育てたいのは、指示待ちでない子ではなく、意味を持って動ける子
のはずです。
「主体的」は、授業の形ではない
ここで、さらに大事なことがあります。
主体的という言葉を聞くと、私たちはすぐに授業の“形”を思い浮かべます。
• グループ活動
• ペアトーク
• 発表
• 話し合い
• 学び合い
でも、本当はここが一番危ないところです。
なぜなら、主体的とは「授業の形」ではなく、「子どもの学びの状態」だからです。
つまり、
• 手がたくさん挙がっている
• よくしゃべっている
• グループで盛り上がっている
これだけでは、主体的とは言えません。
逆に、
• 一人でじっくり考えている
• 資料を読みながら、自分なりに意味づけしている
• 仲間の考えを聞いて、自分の考えを修正している
• 分からなさの中で粘っている
こういう姿の中にこそ、本当の主体性が宿っていることがあります。
つまり、主体的かどうかは、「何をしているか」より、「どんな状態で学んでいるか」で決まるのです。
問いたいのは、「何をさせるか」ではなく「どんな状態をつくるか」
ここまで来ると、見えてくるものがあります。
もし主体的な学びをつくりたいなら、私たちが考えるべきなのは、どんな活動を入れるかというよりも、子どもがどんな状態になっているかなのではないか、ということです。
ここを間違えると、学校はどんどん「方法探し」に向かいます。
• どんな発問がいいか
• どんな交流活動がいいか
• どんなワークシートがいいか
• どんな授業技術がいいか
もちろん、どれも大切です。
でもその前に、もっと大きな問いがあるはずです。
その子たちは、そもそも「主体的になりやすい環境」にいるのか?
ここです。
主体的が「状態」だとしたら、その状態を生み出すのは何なのか。
教師の技術だけでしょうか。
教材だけでしょうか。
発問だけでしょうか。
もちろんそれもあります。
でも、もしかするとその前に、もっと見落としてはいけないものがあるのかもしれません。
それが、子どもたちが毎日置かれている“環境”です。
次回はここを掘り下げます。
なぜ、「主体的になってほしい」と願いながら、私たちはその逆の環境を当たり前にしてしまっているのか。
そこを考えてみたいと思います。
次回予告
「必要な時だけ」では、なぜ変わらないのか
〜子どもを育てるのは、“特別な授業”ではなく“毎日の普通”である〜

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