「主体的」という言葉を、私たちは本当に共有できているのだろうか

「主体的・対話的で深い学び」という言葉は、今や学校現場で当たり前のように使われている。
授業改善、校内研修、研究発表、学習指導案。どこを切り取っても、この言葉に触れない日はない。

しかし、現場に身を置いていると、ずっと引っかかっていることがある。

それは、「主体的」という言葉を、私たちは本当に共有できているのだろうか、という問いである。

多くの教職員は、「主体的な学びは大切だ」と考えている。
そのこと自体を疑いたいわけではない。むしろ、その必要性は誰もが感じているはずである。

ただ、その一方で、「主体的とは何か」「主体的な子どもの姿とは何か」と問われたとき、職員の中でそのイメージが十分に揃っているかというと、そうではない現実がある。

同じ言葉を使っていても、見ているものが違う。
そのズレが、授業づくりや校内研修の中で、静かに、しかし確実に広がっているように感じる。

「主体的」のイメージは、思っている以上にバラバラである

例えば、「主体的」と聞いたときに、ある先生は「自分から発言すること」を思い浮かべるかもしれない。
また別の先生は「進んで活動すること」と捉えているかもしれないし、「子どもに任せること」や「自分で考えること」、「話し合いが活発なこと」を思い描く人もいるだろう。

どれもまったく外れているわけではない。
しかし、どれも「主体的」という概念の一部分であって、全員が同じものを見ているわけではない。

つまり、現場では「主体的」という言葉が共有されているように見えて、実際にはその意味がかなり分散しているのである。

この状態のままでは、授業を見ても、研修をしても、会議をしても、話が噛み合いにくい。

「この授業は主体的だった」と言う人と、「いや、そうは見えなかった」と感じる人がいても、その違いを埋める土台がない。
なぜなら、そもそも「何を主体的と見るか」という物差しが揃っていないからである。

「自主的」と「主体的」が混ざっていることも多い

現場でさらに難しくしているのが、「自主的」と「主体的」が曖昧に混ざっていることである。

例えば、
• 自分から手を挙げる
• 言われる前にノートを書く
• 進んで掃除をする
• 先に取り組み始める

こうした姿は、もちろん価値がある。
しかし、これらは主に「自主的」な姿である。

自主的とは、「人から言われなくても、自分からやること」である。
一方、主体的とは、「何のために学ぶのかを意識し、自分で考え、選び、調整しながら学びを進めること」である。

言い換えれば、

自主的=自分からやること
主体的=自分で考えて学びを進めること

である。

この違いが整理されていないままだと、「よく動いているから主体的」「発言しているから主体的」といったように、見えやすい行動だけで判断してしまいやすくなる。

主体的は「活動量」ではない

ここは、特に丁寧に押さえておきたいところである。

学校現場ではどうしても、
• よくしゃべっている
• よく動いている
• 発表している
• 話し合いが盛り上がっている

といった、外から見えやすい姿に目が行きやすい。

しかし、本当にそれだけで「主体的」と言えるのだろうか。

例えば、よく話していたとしても、
• 何のために話しているのか分かっていない
• 周囲に合わせているだけ
• 先生の期待に応えようとしているだけ
• 正解を当てにいっているだけ

ということもある。

逆に、静かにじっくり考えている子、資料を読み込みながら試行錯誤している子の中に、深い主体性が見られることもある。

主体的かどうかは、目立っているかどうかでは決まらない。
大切なのは、その子が学びを自分事として進めているかどうかである。

それでも、現場では「方法」の話に流れやすい

ここが、学校現場の難しさでもある。

「主体的とは何か」を話そうとすると、聞いている側の関心はすぐに「で、結局どうすればいいのか」という方向に向かいやすい。
• どんな授業をすればいいのか
• 何を入れれば主体的になるのか
• どんな活動を仕掛ければいいのか

つまり、こちらが「主体的とは何か」という概念の話をしていても、受け手はすぐに「何をすればいいのか」という方法の話として受け取ってしまうのである。

これは、教職員の意識が低いからではない。
むしろ、学校現場が日々忙しく、どうしても「明日使えるもの」「すぐ実践できるもの」「形が見えるもの」を求めやすい文化の中にあるからこそ起こることだと思う。

ただ、そのまま進むと、本質を共有しないまま、方法だけが広がっていく。

「主体的が大事」と言われる

「ではグループ活動を増やそう」となる

「発表の場面を増やそう」となる

「子どもに任せよう」となる

結果として、形だけが残る

こうした流れは、決して珍しいことではない。

主体的は「授業の形」ではなく、「子どもの状態」である

本来、主体的とは「どんな授業の形にするか」の話ではない。
「子どもがどう学んでいたか」の話である。

つまり、見るべきなのは、
• 何を学ぶ時間なのかを意識していたか
• 自分なりの考えを持とうとしていたか
• 分からないときに、どう学ぼうとしていたか
• 他者や資料をどう活用していたか
• うまくいかないときに、学び方を変えようとしていたか

といった、学びの中身である。

だからこそ、
• グループ活動をしていても主体的ではないことはある
• 一斉授業でも主体的な学びは起こり得る
• 静かに考えている子も主体的であることはある

のである。

主体的は、「やり方」ではない。
子どもがどのような状態で学んでいるかを見取る視点そのものなのである。

だから今必要なのは、「方法の共有」ではなく「見る目の共有」である

学校現場では、授業づくりの話になると、どうしても「何をするか」に意識が向きやすい。
しかし、本当に先に必要なのはそこではない。

まず揃えるべきなのは、
• 何を主体的と見るのか
• 何を主体的とは見ないのか
• どんな子どもの姿を目指すのか

という、「見る目」の共有である。

ここが揃っていないと、授業研究をしても、結局は

「よく話していたから主体的だった」
「いや、ただしゃべっていただけではないか」
「楽しそうだったからいいのではないか」
「でも学びは深まっていたのか」

というように、議論が噛み合わないまま終わってしまう。

その原因は、方法の違いではなく、見ている視点の違いにある。

今、学校に必要なのは「説明」よりも「対話」なのかもしれない

ここまで考えると、主体的について本当に必要なのは、一方的な説明や定義の提示だけではないように思う。

文科省の言葉を読むだけでは、現場の見取りは揃わない。
理論を聞くだけでも、子どもの姿を同じように見られるようにはならない。

必要なのは、
• 主体的とは、どんな姿なのか
• 逆に、主体的ではない姿とは何か
• この授業のこの場面を、なぜ主体的だと言えるのか

といった、具体を持ち寄りながら考える対話である。

つまり、「主体的」を教えるのではなく、学校全体で少しずつ揃えていくという作業が必要なのだと思う。

おわりに

「主体的・対話的で深い学び」という言葉は、すでに現場の中に広く浸透している。
しかし、その中心にある「主体的」という言葉が十分に共有されていないままでは、実践だけが先に走り、形だけが残りやすくなる。

だからこそ、今必要なのは、新しい方法を増やすことではない。

まずは、

「主体的とは何か」
「どんな子どもの姿を主体的と見るのか」

を、学校全体で丁寧に言葉にしていくことである。

その共有ができて初めて、授業改善も、評価も、校内研修も、本当の意味で前に進み始めるのではないだろうか。

あえて一言で言うなら、

「主体的という言葉を共有していないのに、主体的な学びを求めるのは無理がある」

ということである。

まず必要なのは、方法ではない。
“見る目”を揃えることである。

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