その「当たり前」は、学びの芽を潰していないか
目次
- 1 職員室が前向き一斉座席配置だったら?
- 2 「教室と職員室は違う」「子どもと大人は違う」という思考停止
- 3 教室は100年前から変わっていない
- 4 「自分もそうだったから」の罠
- 5 コの字型・グループ型を「必要なときだけ」と言う人へ
- 6 主体的・対話的で深い学びに逆行する座席配置
- 7 静かで前向きな教室=いい学び、の幻想
- 8 学びは人と人の間にしか生まれない
- 9 結論:当たり前を疑うことからすべてが始まる
1 職員室が前向き一斉座席配置だったら?
ちょっと想像してみてください。
あなたが毎日働いている職員室。
その机がすべて、校長先生の席の方を向いてびしっと並んでいたら?
雑談も相談もできず、周囲の先生の顔も見えず、
全員が前を向いて黙々と「与えられた業務」をこなす空間。
話したいときは手を挙げて発言許可を取る。
そんな職員室、想像しただけでゾッとしませんか?
でも、それが今の教室の現実です。
子どもたちは、そんな空間で6時間近くを過ごしているのです。
2 「教室と職員室は違う」「子どもと大人は違う」という思考停止
こう言うと、必ず返ってくる言葉があります。
教室と職員室は違う
子どもと大人は違う
確かに、違いはあります。
でも、その違いを理由に、非人間的な空間を正当化していないか?
むしろ違うからこそ、
大人以上に子どもたちには「関わり」「対話」「居場所」が必要なのではないでしょうか。
大人は職員室が嫌なら出ていける。
でも子どもは、教室から逃げることができません。
3 教室は100年前から変わっていない
教室の光景は、実は明治時代からほとんど変わっていません。
机と椅子が整然と並び、
全員が一方向を向き、
一人の教師の話をひたすら聞く。
ICTが入り、机が新しくなっても、
その「学ぶ姿勢」は100年前と何も変わっていません。
この現実を変えないまま、
教育改革だ、個別最適だ、探究だと叫んでも、空虚です。
4 「自分もそうだったから」の罠
「自分もそうやって育ってきた。だから間違ってない」
「昔よりマシになった」
「静かに座るのが当然」
こういう声が、教室改革の最大のブレーキになります。
自分が経験したものを「正しい」と思い込むことで、
次の世代の可能性を奪ってしまっていないか?
教室は、苦行を耐える場ではないはずです。
5 コの字型・グループ型を「必要なときだけ」と言う人へ
「対話が必要なときだけグループにすればいい」
「発表のときだけコの字にすればいい」
「普段は前向きでいい」
そう言う人に問いたい。
職員室で「相談したいときだけ机を動かしていい」と言われたら、それで仕事になりますか?
関わりが常にあるからこそ、学びは深まり、思考は進みます。
グループ型やコの字型は、特別な形ではなく、対話的な学びの前提です。
6 主体的・対話的で深い学びに逆行する座席配置
文科省が掲げる「主体的・対話的で深い学び」。
でも、前向き一斉座席配置のままで、それは本当に実現できるのでしょうか?
・自分の考えを言う機会がない
・他者と関わる時間も空間もない
・思考が深まる前に指示が終わる
この構造自体が、「深い学び」とは真逆です。
7 静かで前向きな教室=いい学び、の幻想
「静かで前を向いている=よく学んでいる」
そう思ってしまうのは、ただの“見た目”の安心感です。
静かにしていても、
・何も考えていない
・心は離れている
・内面で諦めている
そんな子が、前を向いて座っているだけかもしれないのです。
8 学びは人と人の間にしか生まれない
学びは、他者との関わりの中で生まれます。
・問いを共有し、
・異なる意見を聞き、
・ズレに気づき、
・考え直し、
・再構成する
これらはすべて、人との対話と関係性の中でしか起こらないものです。
前を向いて黙っているだけでは、何も深まらないのです。
9 結論:当たり前を疑うことからすべてが始まる
前向き一斉座席配置は、管理のための構造にすぎません。
教育のための構造ではありません。
だからこそ、私たちはこの「当たり前」にメスを入れなければいけません。
・子どもはもっと自由に話していい
・机は動かしていい
・顔を合わせていい
・考えをぶつけていい
教室は、「静かで従順な空間」から「対話と探究の場」へ。
それをつくるのは、私たち一人ひとりの意思です。
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