自由進度学習の「光」と「影」──忘れてはならない“あの現場”の記憶

最近、教育新聞で取り上げられた自由進度学習の特集を読んだ。読後、ふと胸に引っかかった違和感が、どうしても拭えなかった。

「満足度が高い」「意欲が上がった」「教員の理解が深まった」──そんな言葉が並ぶ一方で、かつて緒川小学校や卯ノの里小学校で起きた“落ちこぼれ”の実態は、どこにも語られていなかった。

【なぜ「成功例」ばかりが語られるのか?】

記事では、自由進度学習を実践した教員の声として「満足」「学びの質が上がった」「意欲が高まった」という結果が強調されていた。だが、一方で「やや低かった」「変わらなかった」という評価も約3割を占めていたことには、ほとんど触れられていない。

“変わらなかった”のではなく、“ついていけなかった”子どもたちがいたのではないか?
この問いに向き合わずに、「おおむね成功」とまとめるのは、あまりにも表層的ではないか。

【自由進度の自由とは、誰にとっての自由か?】

計画を立て、自分で進度を決めていく――。
それが「自由」であるなら、その自由を活かせるのは、できる子だけなのではないか。

できない子は、自由の名のもとに放置されていないか?

緒川小学校や卯ノの里小学校で行われたマスタリーラーニングは、確かに先進的だった。だが、そこで苦しんだ子どもたちがいたのも事実だ。「習熟を待つ」はずが、現場では「習熟できない子が置いていかれる」構造があった。

【教員の負担と「続けたい」という言葉の裏側】

記事では「負担感は大きいが、8割以上が続けたいと回答」とされている。だが、これは本心なのか?
現場には、「やらざるを得ない空気」がある。特に、上からの方針や周囲との連携が求められる中でのアンケート回答に、忖度や同調圧力が影響していないとは言い切れない。

実際に記事の中でも、「負担は大きかった」「進め方が分からない」といった声は確実に存在していた。

【やらない教員=保守的? そんなレッテル貼りは危険だ】

自由進度学習に取り組んでいない理由として、「進め方が分からない」「子どもに合わない」「学力が不安」といった声があった。
これらは、慎重な配慮から生まれる現場のリアルな懸念であるはずだ。にもかかわらず、「懐疑的な教員も一定数」とまとめる記事のトーンには、どこか「理解不足」のようなニュアンスすら感じてしまう。

【本当に必要なのは、「失敗」の共有だ】

先進事例を広めることは大切だ。だがそれと同じくらい、「やってみたけど失敗した」「合わなかった」事例にもスポットを当てることが、これからの教育には必要だ。

特に自由進度学習のような教師の力量が大きく影響する実践においては、「成功事例」だけでなく、「危うさ」も同時に語られるべきだ。

「実践から見えてきた課題」にも触れるとある。願わくば、都合のいい声だけでなく、本当に見落としてはいけない声にも耳を傾けてほしい。そうでなければ、また“あの時の落ちこぼれ”を、私たちはもう一度生み出してしまう。

僕は2校の出身の人から聞いた。

落ちこぼれはたくさんいた、と。

はたして、この自由進度学習がなぜこうも?名前が変わっただけの目新しいものではないことに気づいているのか?

推し進めている大学教授に問いたい。あなたは落ちこぼれのことをどれだけ知っているのか?良いところにだけフォーカスしていないか?2校の研究収録も毎回課題で上がっていることがある。その課題は毎回解決されることもなく研究のための研究だったのではないか?

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