練習の始まり方に、指導者の哲学はにじみ出る
投稿日:2022年2月19日|タグ:スポーツ指導 主体的な学び 部活動改革 選手育成 コーチング哲学
目次
はじめに:その練習、どう始めていますか?
スポーツクラブであれ、学校の部活動であれ、練習の「始まり方」に注目してみると、そこに指導者の哲学が見えてくることがある。
気づけば、選手たちはいつも「指導者の指示待ち」からスタートしていないか。逆に、選手自身が練習を進めようとするチームになっているだろうか。
この「スタートのかたち」が、選手育成やチームづくりの質を大きく左右する。そんな気がしている。
二つのスタートパターン
練習の開始時。そこには二つのスタイルがあるように思う。
一つは、指導者が中心のスタート。
選手たちが指導者のまわりに集まり、「今日は○○をやるぞ」と説明され、メニューが提示され、練習が始まる。これは昔からよく見る光景だし、自分もよくやっていた。
もう一つは、選手が中心のスタート。
その日のリーダーが前に立ち、事前に相談して決めたメニューをチームに共有し、説明し、他の選手からの意見も吸い上げながら始まっていく。
これは一見すると手間がかかりそうだが、「自分たちの練習」という実感を生む。
育つ資質を比べてみると
前者のように指導者主導で始まる練習では、たしかに知識や技能、思考力、判断力、表現力は育つだろう。
ただしそれは、「受け身」スタートである。練習に向かう姿勢が、最初から受動的になっている可能性がある。
一方、後者のように選手主導で始まるスタイルでは、最初はうまくいかないかもしれない。
でも、継続していくうちに「これはなぜ必要なのか?」と自問したり、仲間と相談したりしながら、主体的な学びの土台ができてくる。
「教わる」から「考える」へ。「やらされる」から「選ぶ」へ。
この違いは、数ヶ月後、数年後に、驚くほど大きな差となってあらわれる。
結論:指導者の役割は変わっていく
結局、選手がどう育つかは、練習の始まり方にすでに現れている。
そしてそれは、指導者がどんな関わり方を選ぶかにかかっている。
コントロールするのか、任せるのか。
見守るのか、導くのか。
もちろん、どちらか一方が正解というわけではない。でも、自分がどちらの立場に立っているのか、そしてそれがどんな育ちを促しているのかを、たまに立ち止まって考えてみてもいい気がする。
そういえば、自分が受けた授業もそうだったなあ……「今日はこれを学ぶよ」と言われて始まる授業と、「今日は何を学びたい?」と問われて始まる授業。その違いは、大人になった今だからこそ、よくわかる。
指導者の周りに集まるチームか。
選手の周りに指導者がいるチームか。
どっちのチームに育てたい?
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