日本教育学会のシンポジウムで交わされた議論は、次期学習指導要領という「何を教えるか」「どう教えるか」という、いわば「肥料」や「栽培方法」についての真摯な検討だったと思います。おっしゃる通り、指導者の声掛けは肥料、他者からの言葉がけも肥料。これらは、植物の成長に必要な「養分」の役割を果たします。
しかし、私が議論から感じる違和感は、植物を育てる際の最も本質的な前提が欠けている点にあります。
それは、いくら最高品質の肥料を撒き、熱心に手入れをしても、その植物が植えられている「環境(土壌・日当たり)」が悪ければ、決して健やかに育たないという、栽培の常識です。
議論の根っこが表面的に感じるのは、学習内容や教員の裁量といった「肥料の成分表」の話ばかりで、その「土壌=学ぶ環境の初期設定」という本質的な前提条件に手が届いていないからです。
(本論1)「初期設定」という土壌の重要性
植物の成長は、その種(子ども)が持つ潜在能力の高さに関わらず、日光、水、温度、そして「土壌」という環境要因によって決定的に左右されます。
日光と座席配置の矛盾
植物は光合成のために日光を必要とします。もし、最高の刺激(知性的な刺激)が降り注いでいるのに、教室の「一斉前向き」という初期設定のために、お互いが「頭の後ろ」しか見えないとしたらどうでしょうか。
これは、植物が「光を求めて上を向く」という当たり前の生存戦略を、環境設定によって阻害されている状態です。コの字型やアイランド型は、子ども同士の視線という「自然の光」を繋げ、対話という「光合成」を自然に生み出す「最適な日当たり」の設定です。
硬い土壌が根を腐らせる
植物が根を張り、肥料を吸収するためには、水はけと通気性の良い「土壌」が必要です。水が溜まりっぱなし(管理されすぎ)で根腐れ(主体性の喪失)を起こすような土壌では、いくら良い肥料(「主体的に学べ」という声かけ)を撒いても、吸収されません。
「一斉前向き」の座席配置は、「結局は一斉で管理されるもの」という「硬く、水はけの悪い土壌」を設定してしまっています。教師が口で「協働せよ」と言っても、この土壌(環境)自体が「管理されるメッセージ」を発信し続けている、最大の「隠れたカリキュラム」なのです。
(本論2)「多様性」を活かす環境設定
また、環境の質は単に肥料の吸収率だけではありません。
• 友達の存在と根圏:
一斉前向きの教室では、友達は「邪魔な頭の後ろ」か、「先生に言われた時だけ一時的に協働する相手」でしかありません。しかし、コの字型やアイランド型という「良好な環境」では、友達の存在は、植物の根の周りにいる「根圏微生物」のように、学びの環境全体を豊かにし、相互作用によってお互いの成長を助け合える存在になるのです。
• 雑草の比喩:
栽培者から見れば厄介な「雑草」も、実は土壌の通気性を高めたり、特定の養分バランスを保ったりすることで、本命の作物(子どもたち)の生育環境全体を支えていることがあります。教室における「異質な意見を出す子」など、集団の調和を乱すように見える存在こそ、「雑草」のように環境の多様性を生み、集団という土壌を耕す役割を担っているかもしれません。彼らの存在を活かすには、一斉管理という硬い土壌ではなく、多様な根を張れる柔軟な環境が不可欠です。
(結論)環境を変えずに方法を変えても意味がない
最高級の種(優秀な子ども)を、最高の肥料(指導法)で育てようとしても、水はけの悪い、日当たりの悪い場所に植えられていれば、その潜在能力は決して開花しません。
次期学習指導要領の議論が真に目指すべきは、新しい肥料(学習内容)や、新しい水やりの技術(方法論)ではありません。それは、まず土壌=環境の初期設定を変えることです。
机と椅子の配置を変えることは、植物で言えば、「水はけの良い土に植え替え、日当たりの良い場所に移す」という、最も根源的な環境整備です。
「学びを変えるのは内容ではなく環境。そして、その環境のデフォルトを疑うことからしか、教育の未来は開けない」という結論は、植物の生育という逃れられない事実によって、揺るぎない説得力を持ちます。
次期学習指導要領を想う
教育
コメント