感化の時代に、生きる力はあるか
——選挙・授業・そしてこれからの社会
私たちは今、選挙を通して一つの現実を突きつけられている。
それは、「何を言っているか」よりも「どんな語り口か」「どう響くか」で選ばれてしまうという事実。
政治の世界では、政策の中身よりもイメージ戦略が力を持ち、
感情に訴える映像やスローガンが票を動かしている。
つまり、「考えて選ぶ」よりも「感化されて選ぶ」人が増えている。
授業でも「正しさ」より「惹きつけられるか」
授業でも同じことが起きている。
教師がどれだけ正確で論理的に話しても、退屈すれば生徒は眠ってしまう。
でも、映像やストーリーがあれば、不思議と目を覚まし、前のめりになる。
その内容が正しいかどうかよりも、「感動した」「面白かった」で評価される。
選挙も授業も、「考える力」より「感化される心」が優位に立つ社会になってきている。
初任者研修で聞いた話:生きる力とは何か?
ある大学教授が、初任者研修でこう語っていた。
「岸辺に立って、“あの石まで飛べるぞ!”と助走してジャンプした。
飛べた!やった!……でもね、その石は1メートルもなかったんだ。
ふと気づくと、岸にはもう戻れない場所まで来てしまっていた。」
この話が問いかけるのは、
「飛ぶことができたか」より「そのあと、戻ってこられるか」ということ。
高揚感や達成感だけで動いたとき、
私たちは取り返しのつかない場所に行ってしまうかもしれない。
正しいことを、感化できる形で届ける
では、どうすればいいのか。
ただ正しいことを語ればいい、という時代ではない。
かといって、感化されっぱなしでいいわけもない。
いま必要なのは、
正しいことを、心に届く方法で伝える力。
論理を情熱に乗せる。
データを物語に包む。
思考を感情とともに揺さぶる。
感化の力を逆手に取り、「考えるきっかけ」として使う。
これこそ、感化優位の時代への唯一の対策ではないか。
教育が果たすべき役割
選挙も、教育も、情報社会も。
これから必要なのは、「感化されない人」ではなく、
「感化を受けながら、なお考えられる人」。
教育が目指すべきは、
「考えることに心が動く人」を育てること。
そのために、
正しさを伝える技術=感化力ある教育が、今こそ必要だ。
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