シェークスピアの言葉に、こんな一節がある。
「あなたの言うことは正しい。ただ前提が間違っている以外は。」
この言葉ほど、今の教育やスポーツ指導に響くものはない。
私たちは「主体的・対話的で深い学び」を求め、熱心に授業改善や指導改革に取り組んでいる。
だが、その前提――つまり“学びが生まれる環境”を、どれほど問い直しているだろうか。
「主体的な学び」を阻む、古い座席の構造
多くの教室では、今も“前向き一斉座席配置”が当たり前のように続いている。
教師が前に立ち、子どもたちは同じ方向を向いて座る。
この構図自体が、すでに「受け身の学び」を前提としている。
子どもたちが話し合う時、まず机を動かすことから始まる。
それは裏を返せば、ふだんは“対話が起きない構造”のまま授業が進んでいるということだ。
形は思想を映す鏡。
この座席配置のままでは、どんなに内容を工夫しても、学びの本質は変わらない。
黒電話でSNSをしようとしていないか
もし現代に、黒電話で友達とグループチャットをしようとする人がいたらどうだろう。
一人ずつしか通話できない黒電話では、会話は成り立たない。
いくら言葉を工夫しても、仕組みそのものが一方向だからだ。
教室の前向き座席も同じである。
教師が“送信者”、生徒は“受信者”。
一方通行の構造の中で、双方向の学びを実現することはできない。
石炭機関車のまま走るサッカー指導
この構図は、教育だけではない。
サッカー指導でも同じことが起きている。
「選手を主体的に育てたい」「考える選手にしたい」――
そう願いながら、練習メニューも立ち位置も、すべてコーチが決める。
選手はただ並び、指示を待つ。
その姿はまるで、電気自動車の時代に石炭で走る機関車のようだ。
確かに走るが、効率が悪く、時代の流れに逆行している。
主体的な選手を育てるなら、まずは「どう練習するか」を選手自身が考え、チームで共有する“場の形”を整える必要がある。
コーチが中心に立ち、選手が池の中の鯉のように集まる形から、
選手同士が輪になり、互いに語り合う形へ。
それだけで、指導の本質は変わる。
デフォルトバイアス ― 「当たり前」という名の思考停止
では、なぜ私たちはこの古い形を疑わずに続けてしまうのか。
その正体は「デフォルトバイアス」だ。
長く続いてきた仕組みを“自然で正しいもの”と信じ込んでしまう心理。
明治以来の教室の形を「普通」と思い込み、
教師中心の座席配置を「安全」と感じる。
しかし、それは時代劇の鎧を着たまま現代の街を歩くようなものだ。
かつては戦えたその鎧も、今の学びには重すぎる。
いま必要なのは、鎧を脱ぎ、動ける形に変える勇気だ。
コの字型・アイランド型がもたらす「思想の転換」
座席をコの字型やアイランド型にする。
それは単なる模様替えではない。
学びの“思想”を可視化する行為だ。
子どもたちの顔が見える。
互いの声が届く。
意見が交わり、学びが共鳴し始める。
教師は教壇の「中心」ではなく、学びの「一員」として存在する。
サッカーの指導でも同じ。
選手たちが自ら戦術を話し合い、課題を見つけ、共に修正していく。
その姿が“主体性”の本当の姿である。
前提を変えるだけで、世界は変わる
シェークスピアの言葉は、こう問いかけている。
「あなたの言うことは正しい。ただ前提が間違っている以外は。」
正しいことを積み重ねるより、まず“前提”を見直す。
前向き一斉から、コの字型へ。
教師中心から、学びの共創へ。
それは、形を変えることではなく、思想をアップデートすること。
問い
あなたの「学びの形」「指導の形」は、どんな前提の上に立っていますか?
行動への一歩
黒電話をスマホに替えるように。
石炭機関車を電気モーターに替えるように。
まずは、座席を――前向き一斉から、コの字型・アイランド型へ。
そこから、未来の学びと指導が動き出す。
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